戦場の『運』の不思議と『菊一文字』
不思議な運の強さについて ですが、今回は唯の運では無く、
烈々の戦闘意欲の結果として運に恵まれた人の運命です。
大金准尉の『一式戦・隼』
大金賢一准尉は少年飛行兵3期 ビルマではエース中のエースと言われた。
飛行50戦隊第二中隊の最後尾編隊長として英のモンドー第一飛行場の攻撃のとき被弾、エンジン停止。
沈着な操縦でナフ河を超えて対岸の砂地に胴体着陸した。
敵地で有り、たちまちインド兵が群がって来た、大金准尉は携帯していた
14年式拳銃で応戦、群がるインド兵と激しく撃ちあった。
多勢に無勢で結果は判っていたが、討ち死に覚悟で持っている拳銃弾45発を撃ち尽くして、残した一発の46発目で自分のこめかみに発射・・と思ったがすでに46発をインド兵に撃ち尽くしていた。
大金准尉は躊躇することなく飛行服の内に入れて居た『菊一文字』の短刀を取り出して抜くと自分の左頸動脈に突き刺し右に引いた、
すぐに大金准尉は意識が無くなった。
見事な自決であった・・・となるのですが、運が良いのか悪いのか?
准尉は英軍の野戦病院で蘇生した。
自己の責務を全うした勇士に運があったのでしょうか、頸動脈を切った出血を止めるだけの高度な止血医術を持って居る軍医か衛生兵がインド兵に居たのか?正に偶然でした。
それと『菊一文字』の切れ味! スパっと綺麗に切れていたおかげで縫合が理想的に出来た。
このような偶然の『運』が良かったのは事実でしょう。
戦争が終わり大金賢一准尉は日本に送還されたのです。
戦死と思われていた勇士は戦後に出身地の栃木県大田原市に帰還されていたのです。
終戦後生還されたと聞いた、同じ2中隊の穴吹軍曹が逢いに行ったときの感想です。
『生還されたことは大いに喜ばしく、しかも大金准尉の左頸動脈から喉の当りまで、約10センチもの横一文字の傷を目の前に見て、累敬の念を抱いた 』
ということです。
この大金准尉が自身で運が良いと思ったのは戦後に故郷に帰還されてからでしょう。
自決に使用した『菊一文字』は有名な刀剣ですが、今でも伊勢市(戦時中は山田)の駅の近くにあります( 二見ケ浦にもあります )。
戦時中は明野戦闘機学校から一駅なので戦闘機乗りがこぞって『菊一文字』を購入したそうです。
有名な撃墜王の穴吹軍曹も『自決用に・・』と購入しています。
穴吹軍曹が『菊一文字』を購入した、その面白いエピソードですが、
ビルマから帰って新機での空中射撃訓練で明野戦闘機学校に来て居た時です。
面会に来ていた母親達を山田駅で見送った後、山田駅から外宮の方へ少し行った左側にある『菊一文字』に入って
『いざというとき自刃用の脇差がほしいと思って居た、刃渡り6寸、ちょっと長すぎると思ったが気にいって決めた。白鞘の業物であり自分ながら満悦の態であった。いま装備されている弾の出な拳銃のことを思うと、これで、 いざ! というときはには確実に死ぬことができる・・・と年来の懸案を解決出きて、ホッと安堵の胸を撫で下ろす思いであった』
このあとビルマで敵機をバタバタ撃墜する≪ビルマ上空の牛若丸≫と新聞ニュースに書かれる大活躍するのです。
終戦時には明野で戦闘教官をしていました。この武運は『菊一文字』を持って死の恐怖を払拭していたのもあるでしょう。
『蒼空の河』 穴吹軍曹 隼空戦記録・・・光文社 より
なお、奇しくも穴吹軍曹は戦後の自衛隊で『明野飛行学校』の教官をして見えました。
(余談ですが・・穴吹軍曹は少年飛行兵学校時代の成績は飛びぬけて優秀では無く普通だったと自伝に書いてます、実戦での空戦技術は学校の成績ではなく天分と自己努力のようです。 卒業で支給された拳銃は成績順で穴吹軍曹は故障❓銃を支給されたのでは、と想像します。)
戦場の運・不運という不思議な話でした。
伊勢に行かれましたら『菊一文字』をのぞいて見て
当時の飛行兵の決意や雰囲気を味わって下さい。