アッツ島決戦勇士
≪アッツ島決戦勇士の歌≫には 『時こそ5月12日~』に始まりますがアッツに米軍が上陸た日です、実際には前年の17年6月7日に日本軍が上陸して居ました、6月25日にキスカ島に総員移転・進駐の命で27日にキスカに上陸していました。
そのあとで新編の米川部隊が、北千島要塞歩兵隊、高射砲・山砲・工兵の一部で10月19日に『アッツ島派遣隊』となって10月29日と11月12日に上陸したのです。
その翌年、18年4月17日に山崎部隊の令下に入って5月12日の米軍上陸を迎えたのです。(簡単に言うと米川部隊のトップに山崎部隊長が転勤してきたのです)
アッツ島の勇士の詳細は“知る人ぞ知る”で私などが書くまでもありません、省略します。
玉砕戦の最後、6月4~5日頃に意識不明の重傷の27名が捕虜になり2600余名が戦死されました。
黙祷
当時の無電通信が残っていますが戦後、殆ど知らされて居ない事実があります。
上陸してきた米軍は5月14日、17時30分に荒井峠付近の陣地にガス弾を併用していた、報告によると、
『火砲ハ十榴級ニヨル一時性窒息ガスデ着弾ト共に白色煙オヨビ一種異様ニオイヲ発シ、陣地守備将兵ハ一時装面ニテ防御、ソノガス弾ハ小規模、局地的デアリ人心攪乱的イヤガラセ使用とオモワレル。
米国も初めての上陸戦闘に恐怖があった為にガス弾を試験的に使ったと思われますが・・・これが米国人の正体です。
歌には『一兵の援も一弾の補給も乞わず』と歌われて居ますが実際には5月16日に北海守備隊司令部にチチャゴフ湾の地区隊本部から緊急要請の無電をしていました。
1 歩兵1大隊半
2 野山砲少ナクトモ一中隊・ヤムオ得ザレバ四一式山砲一中隊
3 最モ必要トスル兵器弾薬九二式重機関銃若干
4 弾薬信管—―94式榴弾5000、重擲弾筒10000、
92式歩兵榴弾2000、
手榴弾10000,37ミリ速射砲弾1000、
同徹甲弾1000、
高射砲弾薬2000、高射機関砲弾薬5000、
38式普通実包100000、
99式普通実包500000、
5 糧食――圧搾口糧10日分、調味品(味噌・醤油・食塩)20日分、
漬物20日分
主食10日分、副食物10日分
6 木炭100(多分100俵と思う)、炊事具5組、
携帯天幕・人型10組
5月17日見込ミ人員2500人分トス。
これがアッツ島からの血潮の滲む無線連絡でした・・
しかし、これに答える事が出来なかった大本営は山崎部隊長からは「一兵の援も・・乞わず」と隠したのです。
少し変わった話題では・・
米川部隊の独立第302中隊の伊勢田武軍曹の『北海の墓標』からです
アッツ上陸前、独立工兵302中隊、中隊の将校5名、下士官20名、兵149名は巡洋艦『阿武隈』の艦首ちかくの魚雷発射管の下の部屋に入った。
同室には独立野戦高射砲第24中隊と独立無線第11小隊が同じ部屋に乗り組んでいた、アッツ島第一陣として上陸したのです。
上陸泊地に到着数時間前に最後の『上陸演習』の時、
小野金蔵大尉の訓示が始まり、直ぐに上陸演習が始まった、その時梯子の上で指揮を取って居た第3小隊長貫名(ぬきな)少尉が
かざしていた軍刀を後ろに引いて前に走りだした時、バチッと音がして軍刀の真ん中から真っ二つに折れてしまった。
そのまま指揮を取って居たが・・熊上曹長の軍刀を借りて再び指揮号令を執った。
「刃も凍る北海の~」は本当にあったのです。余りの寒冷のために名刀を軍刀に仕込んでいたからだそうです。(酷寒で古刀・名刀だけが寒冷地で自然に折れるのか知りませんが・・)
アッツ島の玉砕勇士に感謝いたします。