弥生式土器と有坂鉊蔵(アリサカ ショウゾウ)
有坂鉊蔵・工学博士・海軍中将
明治17年、とうじ16歳の有坂鉊蔵は市内(東京市)向ヶ丘射撃場の後ろの丘の住宅地造成中の、後に弥生町と呼ばれるところで遊んでいた。
掘りかえされた斜面に沢山の赤い素焼の壺が転がっていた、子供たちは石を投げて壺などを割って遊んでいた。
有坂少年はこのうちの形の良い、無傷な物を一個持ち帰り自宅で飾って居た。
全く偶然にこれを見たのが姉婿の石川千代松である、石川は大森貝塚の発見者である米人
エドワード・モースの弟子であった。
石川の友人であり同じモース教授の弟子である坪井正五郎がこの壺を明治22年にスケッチして考古学会に発表して・・・こうして向ヶ丘の新地名の弥生土器となった。
・・・勉強嫌いの私は難しい話は嫌いですが、
昨日なんとなくネットで見ると全てのサイトで!
この発見のエピソードを知らずに有坂・坪井・白井光太郎の3人が発見した、と書いているので正しい史実の紹介をしておこうと思ったからです。
常識で考えても16歳の子供と30歳前の東京帝大の研究生が造成地で石投げ遊びはしないでしょう!!・・・
有坂鉊蔵はその後東京帝大工科に進みますが造兵学です。
帝大教授もしますが造兵学です、工学博士です、考古学とは全く関係ありません。
海軍に入ってフランスに留学、ホッチギス機関砲(銃)の研究です。
後の海軍ホ式13ミリ機関銃となりあらゆる艦艇に装備されました。
(なお、陸軍の92式重機関銃も同じホッチギス式として有坂鉊蔵の影響があります)
有坂は海軍造兵中将で退官します。
退官後に考古学の学会にも興味をもって沢山講演などもしています。
もう一つ、陸軍の有坂成章≪30年式・38式歩兵銃や速射砲≫の有坂さんとは姻戚関係ないのですが共に陸軍海軍で終戦まで活躍した兵器の産みの親です。
蛇足・・頭の良い同姓の人が同じ時代に同じように頑張ってくれたのです、
エピソード くらいは正しくネットに載せましょうね。
坪井の弥生土器のスケッチ画の写真あったのですが・・・見つかりません・・いよいよ痴呆かな(涙)