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有坂博士と弥生土器

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弥生式土器と有坂鉊蔵(アリサカ ショウゾウ)
 
  有坂鉊蔵・工学博士・海軍中将
 
明治17年、とうじ16歳の有坂鉊蔵は市内(東京市)向ヶ丘射撃場の後ろの丘の住宅地造成中の、後に弥生町と呼ばれるところで遊んでいた。
掘りかえされた斜面に沢山の赤い素焼の壺が転がっていた、子供たちは石を投げて壺などを割って遊んでいた。
有坂少年はこのうちの形の良い、無傷な物を一個持ち帰り自宅で飾って居た。
全く偶然にこれを見たのが姉婿の石川千代松である、石川は大森貝塚の発見者である米人
エドワード・モースの弟子であった。
石川の友人であり同じモース教授の弟子である坪井正五郎がこの壺を明治22年にスケッチして考古学会に発表して・・・こうして向ヶ丘の新地名の弥生土器となった。
 
・・・勉強嫌いの私は難しい話は嫌いですが、
昨日なんとなくネットで見ると全てのサイトで!
この発見のエピソードを知らずに有坂・坪井・白井光太郎の3人が発見した、と書いているので正しい史実の紹介をしておこうと思ったからです。
常識で考えても16歳の子供と30歳前の東京帝大の研究生が造成地で石投げ遊びはしないでしょう!!・・・
 
有坂鉊蔵はその後東京帝大工科に進みますが造兵学です。
帝大教授もしますが造兵学です、工学博士です、考古学とは全く関係ありません。
海軍に入ってフランスに留学、ホッチギス機関砲(銃)の研究です。
後の海軍ホ式13ミリ機関銃となりあらゆる艦艇に装備されました。
 
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(なお、陸軍の92式重機関銃も同じホッチギス式として有坂鉊蔵の影響があります)
 
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有坂は海軍造兵中将で退官します。
退官後に考古学の学会にも興味をもって沢山講演などもしています。
 
もう一つ、陸軍の有坂成章≪30年式・38式歩兵銃や速射砲≫の有坂さんとは姻戚関係ないのですが共に陸軍海軍で終戦まで活躍した兵器の産みの親です。
 
 
 
蛇足・・頭の良い同姓の人が同じ時代に同じように頑張ってくれたのです、
エピソード くらいは正しくネットに載せましょうね。
 
 
坪井の弥生土器のスケッチ画の写真あったのですが・・・見つかりません・・いよいよ痴呆かな(涙)
 
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38式歩兵銃

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ようやく 38式歩兵銃 が完成!
・・・と言ってもバインダー表紙のままで着色無しです。
 
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ボルトは一応動きます
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朔杖も引き出せます・・・
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「またこんなもの作ってしまって!家に置かないで小屋にもっていきなよー!」
と怖い 「お局様」 の声です。
 
結局私のストレス解消の模型製作はいつもの通り後始末に困るだけでした。
 
やはり明日からは山中に逃亡しなければならないようです・・。
 
 
こんな綺麗で優しいお姉さんは・・・いませんねーー。
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テロ国家とは?

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テロ事件
今テロの被害がニュースになっています。
昔も今も凶悪な犯罪に違いありません、が一応は自由主義国家では
『最凶悪犯罪』と位置づけされています。
 
この≪ テロ ≫とは → 暗殺・大量殺害・破壊 等の事を言います。
 
このテロが共産圏では凶悪な国家犯罪となって無い!!のが実情です。
 
 例えば・・・
昔、日本の首相が支那の ハルピン駅 でテロに遭遇して暗殺されました。
そのテロの犯人の銅像を造って、まるで英雄のように建てている国家は共産圏だから国際正義という理念が無くても仕方ありません。
 
このようなテロを賞賛する国はイスラム国だけでは無いのが分かります。
 
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しかし自由主義圏では殆ど無いはずですが・・・ないはずですが・・
 
隣国の半島の南の自称自由主義国ではテロの犯人を国家の英雄として自国の潜水艦の名前にしています。
驚いたことに自由主義・資本主義国家がテロを国家で賞賛しているのです。
 
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此の国は国際ルールの無い、社会正義のない共産圏と同じ体質のようです。
 
我が国はイスラム国のテロに注意すると同時に隣国のテロ保護国家にも注意しなければなりません。
 
70年以上前の「慰安婦」と言う捏造語で強請りタカリを続けていますが・・・
今ある危機は
此の国出身の女性が含まれている ≪ 風俗店 ≫ の女性達も半世紀後には
『ウリ達も日本の若者の慰安婦に駆り立てられていた、賠償と謝罪を云々』
と言い出す時が来るかも知れません。
あり得ない話ではありません! テロ暗殺者を潜水艦の名前につけるテロ賞賛国ですから。
 
  ≪今ある危機≫ 笑い話ではなくて将来はあり得ることと警戒して下さい。
 
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明日1月16日は小野田少尉が亡くなって1年

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 あす1月16日は小野田寛郎さん亡くなられて一年・・・
             小野田少尉直筆のサインです
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『帝国軍人・30年以上戦場で戦った最後の武士』と言う事に文句を言う人は居ないでしょう、そのことから本来なら小野田様とか小野田閣下と呼ぶべき御方です。
 
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 若い見習い士官の姿と30年間戦闘を続けた姿を見比べて、
 その不屈の精神力には言葉もありません。                    
ルバング島での30年の戦闘についてはご本人の多くの記録や伝記があるのでここでは省略します。
私のようなアホ人間には想像もつかない絶望的状況下の孤島です。
普通では生き残るだけでも不可能です、小野田さんは其処で生き抜いて戦闘し続けたのです!
 
最後の部下であり戦友の 小塚金七一等兵の倒れたあとの抜粋です。
小野田さんは沈着冷静に戦闘の主力である歩兵銃を取り扱う姿です。
 
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ルバング島で小塚さんの生前の言葉
 
「隊長、早く戦死した奴らの方が楽だったですね」
 
この言葉が小野田さんには亡くなる日まで続いていたのです・黙とう。
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帰還した小野田さんの最大の任務は亡くなった戦友
島田庄一伍長と小塚金七一等兵の墓参と
ご両親や奥さんお子さんへの報告であった。
 
 
今日は小野田さんの行動記録で『わが回想のルバング島』より、極一部のコピーを・・(著作権に触れない範囲です)
この本の見開きは小野田少尉のサインです。
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――――下らない私的な事です――――
 
小野田少尉帰還の年に長女が生まれました。
小野田さんのような意思堅固にと ≪寛≫ を名前に入れました・・・
これはやや思い違い(苦笑)でした。
男の子には良いのですが私の所は女の子です!
頭の悪い私に似ずに・・確かに意思は強い!良く勉強も頑張った! が
女性にしてはあまりにも意思が強い!強すぎて家内以上に私の欠点を指摘して怒る。
99㌫欠点人間の私には・・生まれた時 ≪寛≫ の一字を入れなければとやや反省の現在です・・・
日本男子なら小野田少尉に似て欲しいが・・女の子には不要でした。
 
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初期の自衛隊システム

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≪ 創設時期の自衛隊に詳しい方、教えて下さい ≫
 
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日野熊蔵という人は日本最初の飛行機で空を飛んだ人、
そして有名な日野式拳銃の発明者・・去年にアップしましたが・・
・・・と言う事は知る人ぞ知る有名な話ですが。
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今日は別の話です。
 
その御長男の日野虎雄さんの変わった経歴が気になりました。
明治44年11月13日日野大尉の長男として誕生・
昭和4年4月1日海軍兵学校入学・7年少尉候補生・
8年3月31日少尉任官・
12年4月1日海軍大学校入学・上海在勤武官補佐官・
18年4月1日少佐・など歴任・・という海軍の栄進道に居た方ですが・・
終戦、そして・・
何故か昭和35年には石川の陸上自衛隊14連隊副連隊長・二等陸佐(48)です。
 
      帝国 海軍少佐       →→ 陸上自衛隊普通科
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以後のご履歴は不勉強で分かりません・・・が海軍大学校を出た海軍のエリートが何故??
陸上自衛隊に入られたのか??
 
推測では自衛隊発足時には旧帝国の軍人は陸・海・空の自衛隊に旧陸・海軍の出身にこだわらず入隊していたのでは??と勝手に想像してます・・
  
このような陸海が入れ替わる自衛隊発足時の経緯をどなたか知って居る方が見えたら教えて下さい。
 
尚、 御二男の熊雄さんは昭和11年3月31日東京帝大工学部卒業・
4月10日海軍造兵中尉任官・18年6月1日海軍技術少佐・
20年10月5日東京帝大工学博士学位・
 
≪頭の良い血筋≫ というのは本当にあるようです。
親も優秀なら子供も優秀である→その証明のような家系です。
 
 ( ちなみに我が家は、昔から、祖父も父も私もアホです、
    逃れられない 頭の悪い血筋ですね、残念!  )
 
不思議な海軍大学校の超エリートが陸上自衛隊の幹部に変身していた不思議な話でした。
   
  ≪ 自衛隊の初期の経緯、どなたかお教え下さい ≫
 
 
      明治時代の日野大尉の多数の発明の中の二つです
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日野式拳銃(3年前撮影)
 
 
 

松阪肉で食事会

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    全く私的ですみません。
 
昨日、23日に現役時代の先輩であり御教授頂いた伊賀上野の御夫婦とその御兄弟、私と家内の6名で
松阪市で有名な料理屋さんで焼き肉を食べました。
 
・・・・女中さんが着き切りで焼いてくれるのは初めてで感激!
   と言っても肉のあまり好きでない私は兎も角、
   皆さんが美味しいと絶賛していました・・・。
 
同席していた、昔お世話になった方の弟さんですが、
 
話していたら何んと ≪ 自衛隊の第一空挺団の出身 ≫ と聞いて驚きました。
昭和30年に習志野駐屯地に入隊されて昭和41年に退官されるまで『第一空挺団』にみえたそうです。
退官後に四街道市(初めは四街道町)の市(町)会議員・議長を最近までしていたのです。
 
この日は伊勢参りに帰郷していたそうです。
 
『第一空挺団に』みえたと聞いて色々とお話を・・・と思ったときは相当お酒が進んでいて
・・・この方も私もですが・・・
残念にも、本当に残念にも、あまり御聞き出来ずに終わってしまいました。
 
『山彦秋田』と言うブログの方も第一空挺団のご出身ですが、それより時代が20年くらい古そうです。
昭和30年から40年頃と言うと相当昔で空挺隊が出来たての頃の勇士だと思います。
装具も動作もかなり新旧の違いがあると思いますが・・・聴けずに残念。
 
こんな私的な話ですが≪御縁≫とは全く不思議なものだとつくづく思いました。
娘の嫁ぎ先の隣の市ですから一度お会い出来るかな~、と思っています。
 
               ( どうしょうも無い話で寒くなった兵隊さん?? )
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大型三輪自動車の免許

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大型自動三輪車の免許
 
今二輪車の免許が無くても ≪持ってない/取れ無い≫ でも乗れるバイクとして
ヤマハやハーレー等大型の三輪車が増えました・・・が、乗る人数は頭打ちになってます。
 
大型二輪免許を持っている バイクライダー には
『大型二輪免許』がステータスなのです。

普通免許で乗れる三輪に出会うと、やや卑下して 「二輪免許取れ無い、ヘタレやぁー」と馬鹿にしています。


無茶苦茶に高価な外国の(ハーレー)三輪を買ってまで角ハンドルを握った人達は二輪免許持ち達の、その冷たい氷の目線に晒されていると気付いた時から乗らなくなりました。
 
変わって最近バンバン乗っている三輪ライダーほ、殆どが大型二輪免許持ちになりました。
道交法も自動三輪は普通免許では現車以外乗れ無くなったのです。
今後は新しい大型三輪は大型二輪免許持ちしか乗れ無くなります・・
・・ざまみろ!
と、思って居たらハーレーが2月から売り出す三輪自動車は普通免許のみ
OK,自動二輪免許では乗れ無い、ヘルメット不要・・意味不明です。
 
推測と言うより邪推ですが・これを決めた道路交通法決めるオッサンが二輪免許持ってない“ヘタレ”だが、どうしてもハーレーに乗りたいから…
絶対そうですよ!

少し前の道交法の手直しで オッサン達バイク乗り、いわゆる爺二輪ライダーの春やぁ~~、が一転サブーイ冬になりました。
 
俺たちオッサンライダー、爺さんライダーは昭和30年代の『カミナリ族』の末裔だぞー。
 
ついでに書きますが・・・
もともと二輪免許が進化して四輪免許になった時代の私達は
チンタラチンタラと車校行けば一発で普通四輪をもらった連中が
大型三輪に乗るなど下剋上の再来だと憤慨していました。
普通免許で乗れる三輪はヤクルトおばちゃんの三輪までです。
 
(原付三輪で来る“ヤクルトおばちゃん” エエナァー、

 そしてニコニコされると、ついつい契約して奥方に怒られてます)

 
ちなみに私・昭和37年の夏休みに阿漕浦試験場と言う、前の前の試験場で「軽自動二輪」を250CCのラビットスクーターで取りました。
記憶では全員合格したと思います。
この免許には「軽自動三輪」も付いてました。
 
この少し後で、軽四輪自動車と言うのが出来て「軽四輪免許」が出来ました。
同時に「軽自動三輪免許」は無くなり「軽四免許」に書き換えがありました。
( 軽自動二輪も『軽』が無くなり単なる『自動二輪免許』に統一になりました )
 
250のラビットスクーターで取った免許が何時の間にか軽四免許に進化したのです。
それから7年くらいして800CCの大衆車が増えて軽四輪免許が廃止になりました。
5日間(5時間)自動車学校で乗って証明書貰い警察窓口で『普通自動車免許』貰いました。
私は何時の間にか「軽自動二輪免許」から「普通自動車免許」になってしまったのです。

だから私の世代は一般に → 普通四輪免許と言うのは、二輪免許を取って徐々に進化して最後に貰う物だと思って居ます。

例えれば・二等陸士が10年頑張って一等陸曹殿にたどり着くような深い意味があるのです。

それを自動車学校に行くと一気に普通車が取れるのは・・免許の堕落や!!
 
タレントの所ジョージは逆に私達の時代の免許を『ポツダム免許』と馬鹿にしていますが・・

語源は、終戦のドサクサで復員の時、階級を上げてもらった連中を『ポツダム進級』と馬鹿にした終戦頃の流行語です

 

( 余談ですがポツダム進級と馬鹿にされた人達は年金受給年齢になると階級が一段上の年金額になり大喜びしたそうです、

私のアホな父は海軍には無かったぁ~ と死ぬまで羨んでました、
それまでは海軍は食い物は陸軍より良かったと自慢していたのに・・・父は完璧なアホちゃんでした )
 
現在・私達「大型二輪免許」持ち達は、チャライ車校で貰った「普通免許」で大型三輪車の角ハンドルを握る連中がいるあいだは・・意地でも大型三輪には乗らないのです、ヘルメットも不要の大型三輪なんて・・乗ってやるかぁ――!
 
実は安定の良いヤマハの大型三輪に乗りたいのですが・・・大型二輪免許でしか乗れ無くなる日を待っている ≪やせ我慢オッサン≫ の愚痴でした。

・ところで・
戦前の大正時代には免許のいらない三輪自動車がありました!
車輪は三個ですが、ハンドルが無いから『自動人力車』と言いました。
嘘のような面白い『取っ手』で走ります。
下の写真のように片手で運転するのです、時速は僅か数キロです。
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(水溜まりの多い当時の道路では自動車・馬車。荷車には車輪に
泥水が跳ねないようにズックの覆いが付いてました)

この三輪車・発明したのは前出の日野大尉です
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これが進化して・・
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元祖・大型三輪自動車です。
これが進化した現代版なら・・・普通免許でも許せる気もしてきました。

これも免許は???
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≪この写真無断でお借りしました、ゴメン≫

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池野兵曹建立の慰霊碑

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    ≪ 日露戦争・軍艦と駆逐艦の戦死者慰霊碑 ≫


(戦争に敗れると偉大な個人の業績と貴重な史跡まで損壊される・
             と言う歴史破壊の話です)
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帝国海軍の 池野兵曹 自費建立の、日露戦争従軍中の海戦で軍艦乗組中の戦没戦友の慰霊碑の由来について。
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巨大な石碑です
 
池野兵曹の孫にあたる方、


現在斎宮に在住の 元海上自衛隊幹部の方にお目に掛かり一部、概要を、お教え頂いた。


此の方は池野兵曹の薫陶を受けて代々海軍軍人の家庭ですが、


池野兵曹の孫が同じ海軍で海軍中佐(二等海佐)になって居られる事でも池野兵曹の精神は脈々と今も尚生き続いて居るようです。


 


概要は日露戦争終結後、池野兵曹が除隊したときの叙勲恩給とその
10倍以上の自己資産で建立。


除隊後に購入した山に梅・栗・らっきょ・芋を植えた広大な山は
『池野梅林』として近郊に知られる名勝の地になった。


その頂上に慰霊碑と原籍碑の二つが建てられていた。


石碑の周りに海軍より寄贈の砲弾で囲まれて太い鎖で守られていた。


当時は小学校(国民学校)の子供は遠足で行く景勝の地だったようです。


私の亡母もこの近辺の出身で子供のころは学校の遠足だけでなく、友達と遊びに行って居たと思うと感慨が湧いてきます。


それにしてもこのような史跡遺稿を抹消する戦後教育には憤りを覚える。
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 在郷軍人会による式典の絵葉書


鉄鎖に飾られた砲弾には海軍大臣・加藤友三郎の≪顕忠≫と≪遂良≫の字が刻まれて銀色に象嵌がされていた。


慰霊碑を囲む鉄鎖も海軍省から贈与するために必要寸法などを調べるようにとの文書が残って居る。


 絵葉書には海軍から寄贈された12吋(30センチ)砲弾が4個と鉄鎖で囲まれている。


池野實蔵兵曹と尊父興三兵衛の除幕式までの費用は当時で1千円以上と言われています。


 ( 単純に現在価格に時代換算では20、000倍ですが大正と平成の価値換算指標では消費指標+作業日数時代差人件費数値の倍率は単純換算の1対12となります。


算式・1、000×20、000×12=240、00万円の莫大な費       用が掛かっています )


池野兵曹の捻出した巨費と亡き戦友への深い思いで建立された慰霊碑には
日露戦で駆逐艦「速鳥」軍艦「音羽」で戦死した戦友上官の名前が刻まれた石碑も横に建てられている。
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 横の原籍碑文は「早鳥」と「音羽」の順で戦死された方の出身地・階級・氏名が刻まれている、


その住所も池野兵曹が全遺族へ問い合わせてしらべたもので、慰霊碑式典には招待状も送られていた。


戦死者名の碑文は日露戦争時代の古い階級で・・中主計(主計中尉→二等海尉)とか中軍医(軍医中尉→二等海尉)の刻みが貴重な時代推移を知ることのできる近代歴史の資料です。


 大東亜戦争終戦後にGHQの命令か、または殺伐とした世情でやむなく砲弾は撤去、売却したそうです。


『戦争に負ける』と言う事は貴重な業績や歴史遺産まで消滅されること、の無念な一例です。


 近郊の小学生の遠足で親しまれた慰霊碑は終戦後、殆どの松阪市民から忘れられて行った。  当時の松阪名所交通絵図です。
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その後松阪商業高校が池野梅林の山に移転してきた、この時山頂にあった慰霊碑は松阪市内寄りの山裾(今は小さな丘に見えます)に移築されている。
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池野兵曹が日露戦争時に乗り組んでいた艦船写真


駆逐艦 速鳥 はやとり・・・春雨型3番艦
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  写真は2番艦・村雨  (他に同型艦は7隻)

軍艦・音羽
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  • 上記2艦の日露戦争中の戦死者の名前が池野兵曹建立の石碑に刻まれている。


  慰霊碑の左後ろの小さな石碑がこの『原籍碑』
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 『速鳥』と『音羽』の戦死者の出身地・階級氏名が全て刻まれています。


           ・・・池野實蔵と言う人物・・・・・・

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建立された池野兵曹の業績を孫にあたる元海上自衛隊二等海佐さんに教えて頂いた、その池野實蔵三等兵曹の逸話など。


 今の松阪市上川・・・明治・大正時代は三重県飯南郡神戸村、その当時の文書です。


海軍大佐北村又吉の文面から


『村内一流ノ資産家ニシテ田畑二十町歩ヲ有セリ、三男ニシテ父兄ヨリ一町幾反余ヲ分与


セラレントセシモ断然之ヲ辞シ何編迄モ独力ニテ立派ナ者ニナラント志シ最初ハ屯田兵ヲ


志願セントシテ出来ス海軍ニ志願セリ』


と19歳の少年ながら意志強固な人だったようです。


海軍は三重で116人の志願者中僅か16名の合格という超難関だったのですが・・


晴れて明治29年8月1日に帝国海軍の五等水兵となりました。(当時は二等兵では無かった!!)


その後ハワイ・マレー・香港 等何度も遠洋航海で廻ってたようで順次進級を重ねて行きます。


明治三三年の北清事変(義和団の乱)にも参加して戦功による一時金を下賜されたり従軍記章も下賜されています。


そして日露戦争が始まり現役の満期除隊が延期されて、明治38年10月、日露戦が終わって現役解除


予備役海軍軍人として故郷に凱旋した。


この間11年、19歳から30歳まで海軍軍人として戦火をくぐって働いていたのです。


その間に乗り組んでいた艦の戦友が戦死して逝く姿と故郷に生きて帰った自分の事を忘れられなかったようです。


意志の強さを示す逸話として


海軍に入ってから支給される給金の殆どを故郷に送金していた。


気の合う戦友の誘う酒席をいつも辞す池野兵曹を戦友達は


『おそらく家庭の生活が困窮しているからだろう』と想像していたのです。


ある年、休暇を得て戦友と伊勢神宮に参拝する途中に池野兵曹宅に寄ることになったのですが


戦友は池野兵曹の家は当時ごく普通にあった水呑み百姓の家だと想像していた・・


ところが、母親の出迎えた家屋敷が余りにも立派な屋敷なので大変驚いたという逸話が残って居る。


同時に池野兵曹の給金を酒色に浪費せずに家に送金し続ける意志の強さに改めて驚いた云う。


 


また19歳の少年 (但し、当時は15歳を過ぎると一人前の大人として遇されていた。当然酒もタバコも15歳から受け入れられる時代です) で屯田兵を目指す独立独歩の開拓精神は偉才の面影があります。


 


海軍に合格して横須賀に向かう途中で父兄の餞別を豪快に遣い切って入隊した逸話も凄いものがあります。


ある観方をすれば経済的に憂いのない資産家の3男らしいと思います。


貧乏人ならおそらく大事に遣わずに海軍に入隊したのではと思います。


入隊してから池野兵曹は、海軍では僅かと思いますが諸経費は自己負担と聞いて、


自分はスッカラカンに餞別を使い果たしていて大いに恥をかいた、


自分への恥より此のことを思って餞別をくれた父兄に恥辱を与えたと大いに反省して・・・


以後給金は全く浪費しなかったのです。


浪費しなかった逸話の中に


『艦隊勤務を重ね、相当年を経てから初めてパンを買い食べた、そのあまりの旨さに驚いた』


多分アンパンだと思いますが二十数歳になって初めて浪費したのがアンパンだと思うと資産家の三男がそこまで意志強く無駄遣いを自戒するという強靭な精神力に驚きます。


 


除隊して故郷に帰ってからも人の1,5倍働き、後に池野梅林と呼ばれるまでの開墾と植樹で成功したのも≪財を成す≫目的ではなく、只々莫大な費用を捻出して慰霊碑を作り上げる信念の凄さは今の社会では想像も出来ない人物像でしょう。


 


帝国軍隊に入る時に餞別を遣い切って豪遊する逸話は他にも沢山あると思います。


しかしそれを父兄・一族に恥辱を与えたと反省して生涯浪費することなく。


亡き戦友の慰霊に気を配り、とうとう慰霊碑まで建立する人は皆無です。
この池野兵曹の業績も慰霊碑も殆ど忘れているのが今の松阪市民です。
私も反省しています。
何とか多くの人に知って貰いたいと思います。

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池野兵曹の建立した慰霊碑は個人が独自に創り上げたものですが・・・前出の絵図では大きく描かれて居ました。
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伊25潜水艦・田上艦長

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   写真は伊15潜ー伊25潜は6番艦


伊25潜水艦・田上艦長
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伊25潜水艦といえば・・知って居る方には有名な潜水艦です。


今更私が戦歴を述べるまでもありません・・が


要約すれば


●米国大陸を浮上砲撃した潜水艦。


●零式小型水貞(藤田信雄兵曹長・奥田省三兵曹)で爆撃を2回。
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藤田兵曹長・この方はその後『零水観』『二式水戦』『強風』
に乗って終戦を迎えています。


●ソ連潜水艦L16≪ 米士官乗り組みで国際法違反 ≫を撃沈。


●輸送船も数隻撃沈・・浮上砲撃も含む。


●この殊勲の潜水艦の艦長が田上中佐です。終戦時は潜水艦隊司令・大佐。


 


ただ伊25潜水艦は田上中佐から小比賀勝中佐に替わったが昭和18年9月に消息不明、全員10月24日戦死と認定された。


 


ここでは詳細は以上で終わります。


本題はこの田上明次中佐が


三重県一志郡河合村(現・津市一志町)の出身ということです。


 津中学から海軍兵学校に入ったのですが・・


この方の出身地、一志郡河合村という集落はごく小さな村で今も戸数は変わらないと思います。


この小さな村から10歳位下の稲垣清と言う人が(昭和9年呉海兵団)居ました。


有名な特殊潜航艇の『ハワイ九軍神』の一人として有名になりました。
驚くのは、この小さな村から<潜水艦乗り>が二人もみえたのです。
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ただ歴戦の武勲の田上明次と言う方は『敗軍の将兵を語らず』と昭和55年10月に亡くなられるまで黙していました。


神奈川県逗子市で亡くなられた、御葬儀には同じ伊25潜の砲術長をしていた海兵10年後輩の方が


『戦後30年、お宅に毎日お伺いして昔話をするのが楽しみでした・・』


と涙を流されたそうです。


 

私は子供のころから、端から端まで歩いて数分の小さな河合村の稲垣兵曹のお墓に何度もお参りしました、が・・・


あの小さな村から田上明次艦長も出て居ながら・・軍神とならずに終戦を迎えたことで今は全く河合村の人達に忘れ去られて居ます。
出来れば、もう一度振り返って我が村の偉人をしのんで下さい。


 


  参考文献 田上艦長の9歳下の弟さん/奥井祐三さん
       自家本『伊25潜の生涯』


紀元節です

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          2月11日・今日は、紀元節です。


『雲にそびゆる高千穂の~』と言う皇紀2600年の歌がありました。


昭和15年です、田舎には今でもあちこちに石碑が残って居ます。


今風には建国記念日ですがこの歴史があるのは日本だけでしょう。


隣の大陸や半島では国らしい物は昭和20年以降しか成立していません。


それも自立した成立では無く日本の終戦で連合国に作ってもらった・・・


早い話が未だに伝統歴史に誇りを持てない!過去のない!ペラペラの国です。


「ウオー」の国も「ウリ」の国も2675年という由緒正しい血筋がありません。


 

今でも私の近くにはこのような表忠碑が沢山あります。

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     これを建立した『在郷軍人会』の星と錨が磨かれて光っていました。

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戦後長く≪日狂組≫というテロのような組合組織があって表忠碑を抹殺しようとしましたが・・・ここ20年くらい前から常識と良識を持った地域の人達に守り整備されて来ました。
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この表忠碑も先日お参りに行くと綺麗に清掃されて立派な柵も出来て居ました。ここは「日狂組」退治が進んでいる地域です。
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陸軍大将・一戸兵衛の揮毫の表中碑、
(日露戦争の一戸砲塁で有名なひとです)


 


この日は明野の陸上自衛隊航空隊を観に行きました、未だに残って居る基地通信壕を見に行き写真も撮りました。
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なお、昭和20年にこの壕の直ぐそばにP51が墜落しました。


 

紀元節の話からそれましたがこのような記念日のあるのは我が神州日本だけです。

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海軍・自衛隊の飛行艇

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日本海軍と海上自衛隊の飛行艇は世界で最高水準


・・・と言うより現在海上に離着水が出来る飛行艇は日本だけです。


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( 海上自衛隊の搭乗員は超一流でこの機体を輸出しても使いこなす操縦技術は日本人以外では不可能でしょう・・と元この飛行艇を操縦していた一等海佐さんに聞きました、もともと飛行艇や水上機は陸上機以上の難しさがあるそうです。)


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二年前に3メートルを超える太平洋の波濤の荒天で救助飛行したのを覚えて居る人は多いと思います。


  (お忘れの方は痴呆の検査をお勧めいたします)
その高性能の飛行艇を開発できるのは帝国海軍からの伝統の技術があるからです。・・・・・昭和4年ころから始まる世界最高峰の飛行艇の歴史。


80年前の飛行艇ですが99式中艇以後の機体は今でも通用する優秀記です。


ただ発動機は当時は製造技術が未熟で安定性が弱点です、今の発動機をつければ今でも優秀記になるでしょう。


89式飛行艇
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90式飛行艇
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91式飛行艇
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97式大型飛行艇≪大艇≫
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99式飛行艇≪通称・中艇≫昭和9年
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26時間の航続時間があった優秀記ですが、97式大艇の採用で補助的な機体となってしまった。

二式大型飛行艇
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二式練習飛行艇  昭和15年
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 戦争中期からは250k爆弾2発・電探と磁探で対潜哨戒に使われた
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 十三試小型輸送飛行艇
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    胴体(艇体)を木製で製作の水陸両用飛行艇

以上が日本の飛行艇の歴史ですが・・・

  この・・97式大艇・・
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 このデカくて低速で運動性能が悪い飛行艇で 北出大太少尉は


昭和19年10月27日にセレベス島マカッサル港の沖のライライ島水上機基地からジャバに向かう時、グラマンに追跡されていた、
雲に隠れて旋回してやり過ごして後ろ上空に位置して全部偵察席に付けた
20ミリ機銃で撃墜しています。


これは絶対不利な機体でも熟練の技量で、遥かに優秀なグラマン戦闘機でも落とせた例です。


戦後には米国の「カタリナ」や「グラマングース」などから乗員の訓練が再開して・
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同時に開発も再開・・そして今!!世界一の飛行艇です。
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 世界一の帝国海軍の飛行艇は海上自衛隊に生き続いているのです。
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日清戦争の水筒

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日本軍の水筒


殆ど、と言うか全く知られて居ない・・・時代考証家も知らない??


 明治十八年~三十年 陸軍に支給されたのは『ガラス製水筒』
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某国営放送の司馬小説のドラマでも全く違う水筒を腰に下げて居ました・・バーカですね~~~。


 明治に国家が安定してくると次には国外に進出する軍隊に大量の水筒が始めて必要になり、装備されることになった、これが日本人に一般的に知られることになる水筒の始まりである、明治の軍隊は「水筒と言わずに吸筒・すいづつ」といった。
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採用された「吸筒」はドイツ製の水筒を元に製作された、容量700ccのガラス製であった、ガラスの外部を黒い牛革で覆ったもので形はアールヌーボー時代を反映して綺麗な外観である、


容量700ccで後の大東亜戦争時代の 1リットル に比べるとやや小型であるが採用当時は世界的にも普通であった。

日清戦争、日露戦争時代の騎兵下士官の書いた「ある老兵の手記」には北清事変(明治33年・1900年)のときアルマイトの騎兵用新型を装備して出征した筆者がこのガラス製の旧タイプ水筒を『日清戦の頃はガラスなのでよく割れて困った』・・と記している。


 映画では戦前の『西部戦線異状なし』にドイツ兵がこのタイプのガラス水筒を装備しているのが見られる。


この時の水筒はまだ正式年号を付ける決まりがなく単に「吸筒・すいつつ」ともいわれていた。


 明治三十三年には全てアルマイトの新型に替わったが陸軍に残っていた旧式のガラス水筒の一部が北海道の屯田兵に貸与されていたようである、


ガラス製だが黒い牛皮で巻かれていてガラスはみえない、先に書いたように形状はアールヌーボーの軟らかい曲線の優雅なものである。 


次の写真二枚が『吸筒』である、約百年昔のもので黒かった革が焦茶色に退色している。
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分厚い牛革が口の所から分かります
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( 手にしてみると手のひらになじむような形状に驚く、ドイツ人の合理性が形体力学から考えたのだろう、第二次戦・東西分裂から今のドイツ軍までの水筒形状はアルミになって、容量が1000ccに増えただけで殆んど変わっていない、また巻かれている分厚い牛革は濡れても乾いても滑らずに安定している、恐らく熱い湯茶を入れたアルミ水筒のように熱くて持てないことはないだろう )

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上は同じガラス製水筒の牛革覆いの無いもの、


 詳しくは不明だが軍用の再利用?布を精巧に密着させて縫ってある。

別物ですが、大東亜戦争末期に作られた・代用ガラス水筒
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けっこう綺麗な黒ガラスです。
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これは明治の子供用の玩具の水筒(元は金平糖が入ってます)
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                 高さ15センチで薄っぺらな小さなガラスです

            ガラス製の水筒は置いておくだけで綺麗です、次は陶器製等です、見て下さい。

大東亜戦争末期の陶器水筒

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    陶器製水筒


終戦近くの物資不足から考えられた水筒です。


金属材料不足の代用品ですが、
それ以上に国内のあらゆる金属加工工場は全て軍需品、特に武器の製造に宛てられた(町の家内工場でも色々な武器の部品を作る)
武器の製造に関係のない陶器工場に割り宛てられたのは≪水筒≫≪手榴弾≫
≪地雷≫であった。
陶器での製造コストはかなり高額であったが・・。

陶器製の代用水筒とはいえ、アルミの94式などより、すべて保温性に優れた優秀な物である。
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左2個は500cc・700cc 右2個は1000cc
 

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陶器本体の周りをパルプで固めて肩かけベルトが付く。
アルミ製の何倍も工程があり高価になってしまいました。
極一部の部隊配備しかされなかったようです。

各窯元では伝統の技術を総動員して、もっと高価で綺麗な水筒も作られました。 今でも美術品としての見ごたえのある水筒です。
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パルプでコーテングした物です

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中級の冬山夏山用としては、今でも保温性断熱性で優れています。

次回の『変わった水筒』で出す予定の防寒覆いも不要なほど断熱性はあると思います。
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防寒だけです、冷水用としては上の陶器+パルプに劣ります。

蛇足ですが・・・
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この綺麗な水筒を「清酒容器としたら今でも売れるのでは」と
聞いた所、『中身の清酒より高価になってアカン!
陶器でグラス兼用ネジ蓋はコストが高すぎ!』

まあ・・戦争はコスト不問だからできたのでしょう。


帝国陸軍の知られざる水筒

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日露戦争が終わって・・


この頃 ・1900年、20世紀の始まり頃・ 国外ではアルマイトの水筒が普及しだしてきた。

新たに明治三十年に採用されたアルマイトの新水筒、正式名称はなく「明治型水筒」「日露型水筒」といわれていた。

              右の水筒
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正式名称はなく、「日露型」と呼ばれて以降、終戦まで使われた。

700CCで昭和20年まで使われていた。 


≪騎兵水筒≫
同時期に騎兵用の水筒も採用された、騎兵は長時間の挺身行動や索敵などで補給の不便を考慮して700ccより大型の1000ccの水筒を支給されることになった。
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形も薄く平たい正円のものである、理由はわからないがウエスタン映画でも目にするのは良く似た円形である、カウボーイとUSキャバルリーとやや違うが同じ正円である、騎乗するときに鞍に付けるための必要からなのか・・・詳しくは判らない。
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この騎兵水筒は一部の騎兵部隊に支給されただけです。

昭和5年に新型が出来たため装備されずに日露型から昭五式の新型に変わった騎兵部隊が多い。
  一番上の写真左のズングリした水筒です。

  容量は1000CC。

この水筒は正式兵器とされていなかったので通称「昭五式」と呼ばれていた、( よくよく思えば兵器武器と言っても水筒では敵を倒せない兵器ですから装備品です。同じエリアには鉄帽と防毒面があります。)


その後、昭和九年に正式に「兵器」として名称が付いた、皇紀2594年式、すなわち「九四式水筒」の名前が付いた。

      私達が一番見慣れた(戦争ニュース映画)水筒です。

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 見慣れない、変わった水筒に戻ります。

≪魔法瓶水筒、航空水筒≫

陸軍航空隊で使用された、中はガラス製の真空構造になっています。
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≪耐寒水筒覆い≫

   

九四式水筒の冬季水筒覆 満州や朝鮮国境の酷寒地用に作られた裏毛皮のズック製カバーで水筒本体より高価なものだった、殆んど現存していない。

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覆い裏は毛皮で防寒着を着た≪お坊ちゃま≫のような水筒です。


       防寒水筒を装備した北満州警備の歩哨です
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≪ゴム製水筒≫

生ゴムを使用して94式と同じ形状に作られている。

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特別挺身隊や空挺部隊用などの特殊な部隊に支給された。


なお、一部の書籍では『物資不足でゴム製の水筒を造った云々』とあるが当時ゴムは貴重な資材であったから全くの誤りです。
当時ゴムは航空機の車輪チューブと燃料タンクの防弾材として重要で、ゴムは枯渇していて他の装備品に流用出来ない特別貴重な物資であった。


      



≪空挺水筒・透明柔軟水筒≫
現物は無論、写真でも見つからない、空挺隊用に開発された水筒があります。

『セロファン製でポケットに入れて携行し、中の水を

飲めば薄くなってかさばらない・・』と空挺隊史に記徐があります。

しかし、理科の教師に聞くと、

『セロファンは原料がパルプで、水を入れると溶けてしまう! 

おそらく、戦前に既にあった「フレキシブルガラス」と呼ばれた樹脂の事では?』

と言う事でした。どんなものだったか不明です・・が、

旧ドイツ軍の、このようなポリエステル樹脂水筒に似たものでは・・・と想像しています。

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容量は700ccです。  
( 私は今も冬にオートバイで出掛けるときに熱いお茶を入れて内ポケットに入れ  湯タンポ替わりにも使って居ます。)
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もう一つ、終戦まぎわの予備役、後備役など、いわゆる『根こそぎ動員』の兵士に支給された水筒の一部(主に朝鮮方面に配置された部隊)に竹筒製の水筒があったが今ではその実物は無く?写真でしか見られない。


それらは終戦時に残っていても一度使われると水分が残ってしまいカビの発生による腐敗で一年で竹筒を壊してしまう・・こうして消滅したようです。

     以上で帝国陸軍の知られて居ない水筒を終わります。
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彩雲偵察機

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「我ニ追イ着ク 敵機 無シ」


これは海軍の高速艦上偵察機『彩雲』の発した有名な電文である


ところが昭和二十年一月頃から鹿屋を発進する『彩雲』の半数以上が未帰還となった、グラマンに待ち伏せられて撃墜された。
最高速度が海軍式に約330ノット(615~620kh)高度7500mから9000mを巡航速度210ノットで写真偵察と目視偵察をした、もしグラマンに追尾されても3000mから上昇するグラマンは速力が半減している、
『彩雲』は逆に暖降下で330ノットにプラスアルファで全く追随捕捉されることはない、むろん水平でもグラマンより優足で離脱していた、このときに発信されたのが
文字通り 「我ニ追イ着ク 敵機(グラマン)ナシ」である。


昔、私は優足の『彩雲』が何故撃墜されるのか不思議に思っていた、


そして30数年経った最近(1995年・結構昔になりました)ようやく謎が解けた、


それは 甲飛2期飛行予科練 出身の 海軍少尉『安永弘』と言う人の『死闘の水偵隊』を読んで解った。
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このように安永少尉という方は昭和十四年、巡洋艦搭載の零式水貞から始まって最後は陸上機の『彩雲』を操縦していた、その『彩雲』で鹿屋から沖縄海上の敵機動部隊の偵察出撃の当時の詳細が詳しく、説明してあった、それは一言でいえば
「彩雲の性能では無く、予備学生出身の機長の技量見識の未熟」による未帰還であった、
いかに優秀な歴戦の操縦員でも偵察席の機長(予備中尉)の命令には従うしかない、
グラマンの待つ方向に飛び立つしかなく死地に向かったのである、この頃では兵学校出身の士官は危険な沖縄方面には決して行かなかった、これは特攻隊も同じであった。


安永少尉のような機長操縦の『彩雲』はグラマンに待ち伏せされることなく帰還していた、それは最前線で歴戦を生き抜いて来た予科練の『職人精神と頭脳』である。
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鹿屋を飛び立ち佐多岬上空から沖縄に向かう正規コースを飛ぶといかに駿足の『彩雲』でも高度7000mに達するまで速度は200ノット以下、その上胴体下に730リットルの予備タンクを下げていれば更に30ノット減速状態、飛び立って30分から1時間も経たず、高度もまだ2000mに達しない所にグラマンが待っているのである、
ヨタヨタと上昇中の『彩雲』は鈍足の状態で標的になっていた、


しかし安永少尉はコースを考えてそのようなヘマはしない、分かっていても上官には教えようがなかった。
熟練といえども安永少尉達は上官の予備学生の中尉に命令はできない、お願いするだけである、
「離陸して直ぐに志布志湾から坊津あたりに回って西に向かって、5000mまで上昇してから南に変針して下さい、燃料も酸素も十分にあるのだから・・とにかく高度を取っていればグラマンがいても余裕で離脱できますから・・」と何度も意見具申していたが・・・
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それは予備中尉機長と同乗している歴戦を生き抜いて来た優秀な予科練後輩の操縦士と通信士を死なせたく無いからであった。


しかし新米の予備中尉連中は一人として進言を聞かずに佐多岬からの直進コースをとって・・これが駿足の『彩雲』が速度の劣るグラマンによって次々と撃墜されてしまった原因でした。
学生出身の予備中尉達も『予科練上がりの特務少尉の言う事を聞けるかぁ・・』と・・・立場上のプライドもあったのでしょう、実戦を知らない予備中尉機の搭乗員が気の毒で哀れです。
しかし戦場経験からグラマンが待ち受けていると知りつつ、まだ高度も速度も十分でない『彩雲』の操縦桿を握っていた熟達の予科練出身の人達は安永少尉の具申するコースを飛びたくても飛べず犬死して逝ったのです。その心情を思うとやりきれないものが有ります。

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余談ですが「彩雲」を欠陥機というあアカ印のアホがいますが操縦・整備の熟練航空隊では(安永少尉の居た部隊等)では期待を裏切るような欠陥は無かったようです。

これが撃墜されるはずのない駿足『彩雲』の撃墜された長年の『謎』の答えです。

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       今の海上自衛隊には起こりえない悲劇の偵察飛行です

226事件の磯部浅一 元一等主計

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226 の磯部浅一 元一等主計
 
明日・2月26日は 昭和11年から79年経ちます。
226の計画から決起までの実質的な首魁は 磯部元大尉でした。
 
決起将校の殆どが陸軍高級将校の子弟(河野寿大尉の父は海軍少将)として裕福な育ちをしています。
 
唯一、磯部だけは普通の水飲み百姓の育ちです、当時の90㌫の国民と同じ、赤貧の中で育ちました。
普通と違うのは少年期より成績優秀でした。
山口県大津郡菱海村川原・長州の中心地の斎美小学校では全科目甲の
県庁表彰をされた心身共に優等生でした。
松岡という県庁職員が磯部に学問をさせたいと磯部を引き取り中学・幼年学校・士官学校へと資金援助して無事に任官したのです。
 
磯部は朝鮮大邱80連隊で少尉任官・陸軍経理学校を卒業二等主計に・近衛4連隊・野砲第1連隊・一等主計(のちの主計大尉)・


『11月事件』で村中孝次大尉・片岡太郎中尉・士官候補生5名は停職となった、半年後に自動的に予備役に編入される制度で・・
実質的にクビになった。
 
磯部は吉田松陰の影響下の土地柄で、その心情の基盤は松陰の
『悪を斬るのに時期は無い、悪は見つけ次第討つべきナリ』 
という松陰の自負する≪狂の精神≫であった。
 
その磯部浅一が226の、いわば 決起行動の設計製作実行 
の原動力でした。
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普通には現役将校の安藤大尉や野中大尉が中心と思われて居ますが、
磯部の説得で安藤大尉がようやく決起に踏み切ったのです。
又、決起部隊の首魁は現役最古参の野中大尉になって居ます。
 
磯部浅一という人物は調べれば調べるほど・読めば読むほど強烈な
個性のある偉丈夫です。
磯部の妻・登美子はかつて磯部が80連隊に居た頃に、
ある少女を救って・・何年か後に妻とした。
綺麗で頭の良い奥さんですが磯部の死後4年で亡くなって居ます。
このことだけでも安物のドラマなどにはない本物の深い物語があります。
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磯部に最も傾倒し尊敬していた三島由紀夫は色々と磯部を基礎に書いています。
(私は三島の226への想いこみの書籍には感動しています、が! 
ただ不思議な、タテかヨコか知りませんが 『何とかの会』 やその仲間は気持ちの悪い究極のナルシスト集団で最後市ヶ谷で集団自殺をしています。)
 
15名の決起同志より約1年後、昭和12年8月19日 磯部は村中孝次・北一輝・西田悦
と午前7時から8時の間に処刑(銃殺)されました。
 
磯部浅一の獄中手記の一部
『今の私は怒髪天を突くの怒りにもえてゐます・・天皇陛下何んと言う誤失政でありますか・・何と云うザマですか・・』
 
と憤怒の手記ともう一方では

『銃殺されたら優秀なユウレイになって所信を貫くつもりに御座候へ共 いささか心配なる事は 小生近年スッカリ頭髪が抜けてキンキラキンの禿げ頭に相成り候間 ユウレイが滑稽過ぎて凄味がなく ききめがないではあるまいかと思ひ 心痛致し居り候・・・・』

生死を超越した凄味以上のユーモアの手記もある。
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226事件の 磯部浅一 元一等主計という方の話でした。

セクハラ裁判・・・美女

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大阪方面の水族館であった・・セクハラ裁判・・・


 内容・パートの女性にセクハラ、誰が聞いても、あのオッサン二人は
セクハラでしょう、

と思うようなセクハラです、クビにしても良いようですが・・。

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ただ最近のセクハラ報道の範囲が不明瞭です。


 


例えば・・≪美人すぎる自衛官≫ は確かに美人で声も綺麗です


(私、めちゃめちゃ好きです!)


     が、ほかの陸海空の女性自衛官も美人ばかりです。任務に熱心に取り組む自衛官は男女とも普通以上です、ましてブスなど一人も居ません。
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     他の職場でも同じように誇りを持って働く人は皆美人です。


 だから、普通に・・美人自衛官とか美人鉄道員・美人運転手・美人ヤクルト   おばさん、でいいのではないの?


 


 


反対に時々見かける・仕事中に不愛想でダラダラ・してる女性はブスです、これを・もしも


 ≪ブスすぎる○○≫ と言うと『セクハラだ~!』と醜い勤務態度の女性達が醜い性格の弁護士や・醜い性格のマスコミ・と蝟集して騒ぎます。しかし!


『これは絶対にセクハラでは無い』 と日本中の国民が思って居ます!ありえません!


20年ほど前までのお役人、特に女性は酷い勤務態度のブスばかりでした、


その意味では最近の役場の女性にブスは居ません、気持ちの良い美女になってます。


 


ついでに言うと、よくマスコミが差別用語を報道しますがこれも正誤が全く混乱しています、と言うより間違いです。


 


・・・・例えば・・・・


≪女性の求める三高・・高学歴・高収入・高身長≫ 


これは先日のニュースでも言ってましたが、一流大学を出て居ない、給料の安い、身長も低い男(最大多数の男です)には寝込むような差別用語だと知らない馬鹿マスコミです。


 

同じ事を男性が女性に ≪三B→ブス・ブタ・バカ≫ といったら差別用語で使えない・・と言うはずです。


セクハラや差別発言は普通の男性には殆どが悪意のある≪落し穴≫なのです。


 と言う事ですが・・・『うつくしすぎる自衛官』を『美人人自衛官』と言っても綺麗で美人なことに全く文句ないでしょう。
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 男女を問わず、健気に任務に励む人を『美人』と言います。


美しい人間とは・・・健気に任務に就いている人のことです。
雪混ざりの雨の日に掃海艇の隊員は全て美男でした。
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・・・・・逆のブ男ブ女もたまに居ます・・・・・


昔、私の勤務先の山裾に居たブ男ブ女の妖怪の話です。

頑張る人を妬み・落としいれる人間を『溶解』と言います。


『妖怪』とほぼ同じですが、脳味噌が溶けて無くなって居る、
または元々脳味噌の無い人間を『溶解』・脳味噌が抜けたという意味です。


     妖怪・嫉妬邪心で出来て居る『本卑魯坊主と女房』
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         この夫婦妖怪に善人の告げ口をして媚びる、

      金銭に異常な執着心をもつ妖怪『末火賂蛸』

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大阪水族館のセクハラ2人組から・・・話がそれました。ゴメン

口直し、目の保養に もう一枚≪美しい自衛官≫さんです
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セクハラはダメ!!!それより 美女は見て聴いても最高です! 

3月10日は陸軍記念日です

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        大日本帝国陸軍
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今は!
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是非とも復活させたい金鵄勲章
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今も海賊海域で活動する海上自衛隊員には金鵄勲章を・・
従軍記章だけでは申し訳ないでしょう!!

東北の震災出動や御嶽山の出動も金鵄勲章を・・

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 『 国家を保護し 国権を維持するは兵力にあり
兵力の消長は国運の盛衰なり・・・』

もう一度 独立国家の誇りを考える記念日です。

かつては、女の人も・・
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ワンちゃんまで・・
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国の為に頑張ってくれました。

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戦艦武蔵の機銃の俺蓋

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今日のニュースで 『 戦艦武蔵の発見で機銃座に俺蓋が付いていたのを発見・・新たな新資料云々 』

と出ています。

模型製作者はどうか知りませんが普通に知られている事です。

《 軍艦武蔵 》の中にこの機銃座の俺蓋のことが出ています。

・・・これは敵弾や破片を防御するには無力で、主砲の爆風から機銃員を守るという為だけの無駄・・・

乗組の将兵にはやや冷たい評価の、どうでもいい装備だったようです。

だから~~ 資料にも詳しく書かれない= 忘れられて= プラモ屋さんも知らなかった・・・と言うことでしょう。


今日、急いで書いたので詳しい資料を探し出してから詳しく載せます。

     とりあえず 〝 新発見” では無いぞうーー  !!!!!!!

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海底の戦艦武蔵・2

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海底の「戦艦武蔵」発見の記事です


 


その報告の抜粋


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


《 探査機がその残骸をさまざまな角度を撮影した結果、クルーは、敵飛行機を迎撃する


(1)シールド付きの25ミリ三連装機銃だと判断した。


実は、これまでの定説では、この場所には、シールドがないタイプの機銃が設置されたといわれていた。シールドは、武蔵が主砲を発射した時に発生する衝撃波から兵士を守るために取り付けられていたものだ。


 


  ほかにも“新事実”はあるようだ。敵艦との距離を測る


(2)「測距儀」に観測用の窓が確認されたほか、


(3)15.5センチ三連装副砲」の後部にあるハッチの形が違うなど……ネット上では模型ファンからさまざまな指摘が出ている。 》


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


と言う記事がネットのニュースでもっともらしく出ています。


しかーし


新たな発見ではなく普通に知られた事に過ぎません!


知らなかったのが不思議!!これを一言で《無知》といいます。


 


・・・まず正しい知識を・・・


 


(1)の「シールド」という単語は海軍にありません。


第一機銃群を例にとると・・三番機銃は前檣楼右舷の中腹・この25ミリ三連装機銃台には主砲の爆風避けの『覆塔』が被せられていて塔内には機銃長以下射手旋回手銃手6人の計9名がいる・・・
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                  覆塔も観測窓も見えます

機銃群の機銃座には『覆塔』・・勝手にシールドと言ってますが・・初期から装備されていて驚くような新発見ではありません。


手塚正巳著『軍艦武蔵・上』P447・・第一機銃群の覆塔の下で一番銃手の唯一の生還者 吾田豊一水の記徐、鉄帽と防弾チョッキを装着していた。


 


      『軍艦武蔵・下』・P76・・覆塔のない第三機銃群7番機銃の唯ひとりの生還者山田六郎一水の記徐、


           「胸から腹の辺りが息苦しい、左腹部に熱い硬いものが食い込んでいる、防弾チョッキの内側に入り込んだ異物を引き抜くと拳大の弾片だった、どうして防弾チョッキの中に入り込んか判らない・・・」


山田一水の7番機銃には薄い鉄板の覆塔の防御さえ無かったが鉄帽と防弾チョッキは付けていた。
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第七機銃群以後の『特設機銃群』は周囲に土嚢を置いただけで鉄帽も無く艦内帽だけだった。


大量の機銃群を増設したが兵員の鉄帽も防弾チョッキもなかった・・。


 


(2)測距儀の観測窓


   写真のとおりです。窓ははっきり見えてます。


 


(3)15センチ三連装副砲


   極初期に全て撤去されて「最上型」重巡洋艦の主砲に転用されてい          
      この時点では装備していません、4年前から積んでません!!
   その後に12,7センチ連装高角砲がズラリと並んでいました。後ろのハッチ云々以前の誤りです。


 


今回は誤ったアホ報道の訂正だけですが他にも興味のある「知られざる」海軍のよもやま話をアップします。


暗く、誇りだらけの物置小屋からこの本を探し出したので・・
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もう少し帝国海軍の《海軍魂》と《海軍騙し》の面白い部分をまとめて・・・
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唯・・・世間は春休みです。私の子供の頃は天国気分のシーズンでした。


   しかし!時が流れて「孫」が長期滞在する現在は・・・多忙で泣きの老後をあじわっています。

   テラノザウルスのような孫が寝てから書いているのでt当分はまとまりません、
    スンマセン。

           テラノザウルスです
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