歳月人を待たず と言う諺があります
出典写真は昭和18年の・・・
一月には小野田少尉以外にも物故された大和武士がみえます。
「檜 与平」ヒノキ ヨヘイ という方が平成三年一月に亡くなられました。
大正八年 徳島県三好郡三加茂町 に生まれた、 県立池田中学校(旧制)から陸軍士官学校卒業の時、航空科を志願したが「欧氏管狭窄」で不合格、軍医に打ち明け治療に専念ようやく適正検査に合格し飛行将校としてスタートした。
この人は小野田少尉と共に、日本最後の武士、本当の「ラストサムライ」です。
檜 与平 少佐の戦歴も驚愕します。
陸士53期
22歳でビルマの加藤隼戦闘機隊の中隊長として「一式戦闘機・隼」に乗る。
『加藤戦隊長の護衛』が主任務で自由な空戦はあまりする機会がない、それでも昭和17年1月31日 シンガポール上空で 英 第238飛行隊のハリケーン 二機を撃墜、最初の戦果をあげて以後活躍を続けた。
その間、P38ライトニング ・リベレター爆撃機 等を撃墜、
また檜少佐自身も空戦で被弾負傷、完治を待たず一ヶ月の入院で戦線に復帰した
昭和18年11月25日 ラングーン上空で 一式戦闘機に乗って、日本軍で始めてP51ムスタング を撃墜した。
米第311戦闘爆撃航空群の指揮官、ハリー・R・ミルトンjr大佐は檜中尉の一撃で被弾墜落、落下傘降下して着地、日本軍の捕虜となり機体がP51と証明されました。
その戦闘の二日後 27日今度はP51との戦闘で右足を膝下から銃弾で吹き飛ばされ、
右膝下、片足をなくしたのです、出血の苦痛と睡魔の中、500キロ近く飛び続け基地に帰りついた。
(この前日 敵の夜間空襲の邀撃で四回出撃し、一睡もしていなかった)
体力の回復まで戦地の病院で治療、そして輸送船で無事内地に帰り、「戸山が原 陸軍病院」で入院治療をします、
普通片足が無くなっては戦闘機のパイロットとしては致命的です。
しかし、驚異的な早さで回復、右足は義足の状態で退院命令を待たず病院を抜け出しました。
母校の三重県明野の陸軍飛行学校、戦闘機学校に着くと直ぐに片足で、まず旧式の九七式戦闘機に乗る練習から始めました、ジュラルミンの右足と気づかない整備兵が居たほどです。
同時に戦闘機教官としての任務も果たします。
病院では仕方なく後で退院許可が軍医長から出ました。
(本来は軍隊の病院は退院許可がないままでは逃亡として処罰されます)
そして教え子の甲種学生(士官学校卒業の新米将校)を率いてそのまま防空隊を指揮。
その後、飛行第二集団 第二大隊長として「五式戦闘機」で明野、泉佐野飛行場から出撃して戦う、後に状況の変化で部隊名に変動はあるが終戦まで明野で戦闘の指揮官として編隊の最先頭で戦う。
明野の教導飛行111戦隊で隊長として「五式戦闘機」に乗りますが
フットバーの小さい「五式戦」の為に「義足」を伊勢の鍛冶屋さんに頼んで改造します。
そして戦隊を率いて空戦に出撃、活躍しました。
昭和20年6月5日、大阪方面に大挙襲来した B29を邀撃します、
戦隊は奈良、伊賀上野、熊野、松阪 近畿一帯の上空でB29を6機撃墜,不確実5機、落下傘降下した敵兵は23名、
伊賀上野で撃墜したB29が新聞で発表されました。
しかし部下の 日比少尉、阿部少尉が紀伊長島上空で体当たり、戦死しました。
この時もですが、檜少佐は無き部下や教え子を思い出してはいつも涙ぐんで・・・
それはかつてビルマのラングーンの空でも、日本の空でも、涙を抑えて口ぐさんでいた部下想いの少佐でした。
・・檜少佐の戦闘の一例です・・
昭和20年7月16日 伊勢から松阪に掛けての上空で米軍506大隊457飛行中隊の隊長、長い名前の人です、
ジョン ウエズリー ロング ベンボウ大尉(ノース カロライナ生まれ、檜少佐の一つ上の1916年・大正7年生まれ)の「P51ムスタング」を 「五式戦闘機」で20メートルに接近、6発の20粍砲弾で撃墜、
ベンボウ大尉機は片翼を吹き飛ばされ、津の西方、 美里村 の長野城跡の山中、桂畑(かつらはた)に激突しました、勿論ベンボウ大尉は即死です。
なお日本軍戦闘機でのP51の初撃墜と最後のP51撃墜をしたのは偶然にも檜少佐でした。
平成十一年私は雲井氏と当時の事を知る美里村北長野の方(馬杉宗伸さん・神主さんで元理科教師・・本人は英語の方が得意だがなぜか定年まで理科を持たされた、と英語教師の雲井氏に笑って話された)
この三人でP51墜落跡を調査しました、
墜落した急な山城の斜面に日本の植物生態系に無いアメリカ産の雑草が数本生えていたのは、多分、ベンボウ大尉の衣服に種子でも付いていたのでしょう、 雲井氏が写真を撮ってベンボウ大尉の遺族(甥がドクターで健在)に送りました。
もう一つ、檜少佐は指揮所から飛行機の所まで広い飛行場を他の飛行兵のように走ることは出来ません、
義足を飛行機のフットバーに入るように改造した為に走るどころか「歩く」事も難しいのです。
その為檜少佐はサイドカーに乗って飛行機の側まで行きました、ここでも努力したのです。
片足でサイドカーに乗るのも普通の人には出来ません、乗れば判りますが両足でも慣れるまでは難しい乗り物です。
なお蛇足と思いますが檜少佐の7月16日の戦闘のとき部下(教導飛行一一一戦隊は明野第一教導飛行隊と部隊名は変わっています)の児島中尉の五式戦が松阪と一志の山中深くの上小川(かみおがわ)上空で被弾して墜落しました、中尉はパラシュートで脱出して髯山(ひげやま)山中で地元の人々に救出されました、
この中尉の足跡を調査していて聞いた話しです
「おじいさんが子供の頃よく話していたのは・・その日落下傘が髭山の上の方に降りてきた、
『アメリカやー!やっつけろ!』と数人が鍬や鋤を持って髭山に登っていくと上から『おーい日本だー、陸軍だー』と日本の飛行兵が降りてきた、脚を怪我していたが無事に明野からの迎えの車で帰った」
と教えてくれたのは私と同世代のおばさんでした、
しかし無事に帰還した中尉が目に浮かぶようで気持ちよく帰ってノートを書きました。
なおこの頃上小川地区には若い男は出征してだれも居ません、
「アメリカをやっつける」と勇んで行ったのは老人ばかりだったのです、
その老人達・といっても六十歳前後ですから今の私と変わりません、今も昔も年寄りは自分の老齢に気づかず気持ちだけは元気なことに感心しました、
(もし児島中尉でなくアメリカの飛行兵ならピストルを撃ってきたかもしれず、怪我人が出たかもしれません、勇敢も時には危険です)
檜少佐の事から少し外れてしまいましたが言いたかったのは優秀な指揮官の下では部下も優秀に成っていたようです。
一月の物故英霊の記憶です 黙祷