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インチキ宗教の悪霊退散

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今日のニュースでインチキ宗教のオッサンがインシュリン注射をさせずに
「悪霊退散」と拝んで…7歳の子供を殺しました。
子供には、この男と両親が本当の悪霊だったのではないか?
かわいそうな子供です。

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でも!!これをそのまま、最近の世論に当てはめると

  インチキ宗教  =  共産・社民・民主・赤(垢)マスコミ
  子供の親    =  安保法案反対と言いっている一部の無知な国民
  殺された子供  =  日本国民
  インシュリン(お医者さん) = 陸海空自衛隊員・海上保安官

子供が亡くなってから 『お医者様ぁ~インシュリンをー』 と言っても死んだ子は生き返りません。
支那共産国が日本国土を侵略して、国民が殺されてから 『自衛隊様ぁ~~』 では遅いのです。

そうです、インチキ宗教のオッサンこそ、安保法案を戦争法案と未だに言っている共産・民主・社民・朝日の
人間達と全く同じ人種です。

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水木しげる様がご逝去

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今日、11月30日


水木しげる さんが亡くなりました。合掌
大昔から水木ワールドと言うべき「墓場の鬼太郎」から「河童の三平」まで読みましたが
(漫画なので読むではなく見たと言うべきか?)


一連の大東亜戦争のシリーズも見ました。


 
特にラバウルのズンケン守備隊の全滅から片腕を無くす実体験は映画やドラマにもなって居ます。
全滅守備隊の二名の下級将校に自決を迫って、結局銃殺する悪魔のような
松浦義政参謀の実態も映像されて、当時の参謀の暴挙が暴かれました。


愚劣きわまるこのイキサツは、水木しげるさんの『総員玉砕せよ!』という漫画に詳細に描かれています。
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(ドラマでは松浦義政参謀に扮して榎木孝明が木下少佐参謀となって悪人に   扮して居ます)


水木しげるさんの、この画面でズンケン守備隊の生き残りの方達の無念な気持ちが漸く晴らされたのです。


 ラバウルズンケンの悲劇について、私はずっと以前に、
新東宝「最後の突撃」を見たのですが、ズンケン守備隊の小隊長を浜辺で銃殺する松下参謀が主役です、この参謀を 
≪苦渋の処理をした良い人≫という内容でした。


ところが 水木しげるさんの実体験映像で、この参謀こそ無茶な玉砕命令を出した男で、挙句にようやく生きて還った兵に 「もう一度突撃して死ね」と罵声を発した男で、その上将校を射殺した極悪人だと分かりました。


 
新東宝「最後の突撃」の参謀は悪人とは正反対の内容なので「何んでやぁ~」と思い良く調べたら・・・・


原作者はこの時のラバウル参謀・松浦義政・本人です・・この悪魔のような参謀が戦後に書いた手記です、ここまで狡猾な人物はあまり居ないでしょう。
(映画「最後の突撃」では主役で松下参謀・少佐になっています、
 名優・水島道太郎が扮しています)


ズンケン守備隊を全滅させた上に生き残った将校を銃殺した男自身の手記だったのです。


僅かに生き残った兵士の一人「水木しげる」さんが漫画に残してこの悪魔のような参謀の戦後の嘘がバレタのですが!


 水木しげるさんは妖怪変化を描いても、何処か愛らしい妖怪になっていたのはラバウル・ズンケンの参謀に醜悪な妖怪以上の悪魔を見て居たからだ! と私は信じて居ます。
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妖怪・お化けを愛した、そして悪魔の参謀を憎んでいた水木しげるさんのご冥福をお祈りいたします。
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私の好きだった三人の大漫画家
わちさんぺい先生・赤塚不二夫先生・水木しげる先生
のお三方は全て居なくなってしまいました・涙涙涙

知られない高射砲の戦果

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日本軍の高射砲


 ・・・・色々と本を読んでいてつくづく思ったのは・・・・


昭和18年以降の日本の艦船の飛行機の被害の実態、対空射撃の弱さを知りました。


その流れでB29の空襲の被害と防空の戦果を調べてみました。


陸軍海軍の防空航空隊の奮戦は手記にも沢山あります。


我が町出身の辻本少尉のB29体当たり撃墜は米の「B29HUNTER OB THE JAAFで知りました、この辻本少尉は始めは高射砲の部隊に18年12月入営しています、それから特別操縦見習士官を志願して19年2月航空科に転科しています。


下から打ち上げる高射砲部隊より戦闘機に乗って敵機を落としたい、と思ったのでしょう。
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 子供の頃から『高射砲は当たらなかった』とよく聞いていました。
それから『高射砲は当たらない』と思いこんでいたのですが、少し調べて風評の『当たらない』常識が全くの間違いと知りました。


 ・・・・日本本土空襲・・・・


B29の延べ空襲機数は 6276機 で、損失は約700機 
撃墜は約400機 
撃墜400機のうち93~98機を戦闘機で落として、残る300機余りは高射砲の戦果でした。


高射砲は命中すれば撃墜を確認していますが極少数です、戦闘機と違って追跡できないからですが、実際は至近距離で炸裂した砲弾の破片で機体にダメージを受けてサイパンに帰る途中で海中に墜落していたのです。


ただこの時は殆どの乗員は帰途水域で待機している潜水艦や飛行艇で救出されて人的被害は少なかったようです。


撃墜数400機に比べて事故や故障で300機も損失が有ったのは当時の日本も同じように戦時増産とパイロットの技術不足だったのです。


日本のみの操縦技術未熟や工業力不足では無かったようです(最も規模は二ケタも違いますが・・)

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 このように、『当たらなかった』と思って居たのと逆に地上の高射砲(海軍では高角砲)の対空射撃の精度が優れて居た、そしてB29の撃墜も防空戦闘機の3倍以上もあったと分かりました。


さらに判ったのは、大東亜戦争の時代、発射弾数と命中の比率は日本軍が最高だったのです。


比率で優秀なのは残念な事情も有りました。


≪比率算出の高射砲の数が欧米独に比べて一ケタ以上も少ない≫


≪弾薬が極端に少なく、無駄な発射が出来なかった≫


B29が集中する地域のみに配置されて居て・・待ち受けて発射する為精度が上がった≫


≪弾丸が少ない為に照準を念入りにして発射していた≫


≪欧米独のように高射砲弾幕を張れないから狙撃手のような対空戦闘だった≫


≪高高度のB29には発射せずに、4000メートル前後の爆撃進路機のみ射撃した≫


B29の空襲では南方戦場の小型機の陣地潰しの機銃射撃もなく照準に集中出来た≫


 他にも色々とありますが結果として、
貧乏な工業生産力では無駄な弾丸を撃つほど支給配備されて居なかった、狙撃銃と同じ使い方をするしかなかった結果の高ヒット率だったのです。


 
いずれにしても、戦闘機以上の撃墜数を誇って居た高射砲の評価が異常に低いのは何故でしょうか?


これからは日本の高射砲、高角砲の知識が全くないのでもう少し勉強してみたいと思います。

         本文に全く関係ないのですが、可愛い女性です。
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明日は12月8日・日本が欧米の罠にハマッタ日

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昭和16年、日本が大東亜戦争を始めなければならなくなった無念の真実です


真珠湾攻撃の約20年前の出来事です。


大正時代、国際連盟に日本は世界史上最初の『人種平等宣言』を提案した。


大正時代・パリ講和会議で “東洋の小さな島国の黄色いサル”が調子に乗って


『人種平等宣言』を国際連盟規約に入れることを提案したのです!!


 


21世紀の今では「平等」は普通の提案ですが、当時1910~20年では欧米が驚いて怒りました・・


この時代は米では黒人差別の時代、英仏蘭などヨーロッパの国はアジア・アフリカに植民地を持って居て“黄色黒色人種の平等”など欧米には共産主義以上に危険な、「東洋の黄色いサル」の提言として排斥が始まったのです。


こうして日本以外の全ての国から猛反対で不成立になりました。


これが隠された原因で日本帝国という黄色人種を国際連盟から締め出す、世界地図から締め出す、と言う欧米白人優位思想国家の戦略が始まったのです。


 


それ以降日本は欧米に危険な国家として欧米が協調して、日本潰しが始まったのです。


「黄色いサルの抹殺計画」が欧米で動きだしたのです。


これを機会に日英同盟の廃止をカナダ・オーストラリアが欧米の後押しで母国英国に迫って、結果日英同盟は無くなりました。


それ以上に『日本を悪辣な国』に捏造宣伝工作が始まりました、


その第一弾は「対華21カ条」と言う、欧米から見れば植民地政策をしている自分達より遥かに優しい(取るに足らない)条約を大げさに取り上げて日本潰しの第一歩にしました。


 


この事実を日本の教科書では ≪「人種平等宣言」を世界で最初に提案した≫ ことを教えずに「対華21カ条」の事のみを書いています、


この「対華21・・」の内容と米国のハワイ・フィィリッピン政策と比べれば・・英国の過酷な植民地政策と比べれば・・オランダ・フランスのアジア植民地政策と比べれば・・・一目瞭然ですが。


支那を北清事変で野蛮国家と言って居た英米は、これ以降 支那への援助を始め、日本を「国際連盟」から追い出す工作が始まったのです。


「リットン調査団」などの圧力が日本を孤立化させ、さらにABCDラインで日本を挑発して・・。


 


日本は明治37年に米国参謀総長アドナRチャフィーの計画、カラープランの『オレンジ計画』の罠に20年掛けてはまり込んでいたのです。


「オレンジ」とは日本の暗号名です。


こうして海軍は『ニタカヤマ ノボレ』が陸軍は『ヒノデハ ヤマガタ』の暗号電信で欧米の罠に、自滅の罠に突き進んで行きました。
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蟻地獄に落ちた日本の外交無知以上に、何十年も掛けた謀略を続ける欧米の恐ろしさを学ぶべきです。


今の自衛隊を 赤(垢)政党 は米国の走りつかいと言いますが、今の自衛隊は日本が生き残る為には米国と協調路線を取らなければ生き残れない!と知って居るのです。


大正時代の国際連盟での≪正義感で提唱≫した『人種平等宣言』の大失敗を繰り返さない為の協調路線をすすんで行くしかないのです。


 


米国は状況を見つつ、常に日本とは別に支那共産国家とも繋がって居る、いわゆる


ダブルスタンス・ダブルスタンダードの国、いつ裏切られるか分からない!と警戒して行動している防衛省・自衛隊の幕僚以上の苦しいジレンマを考える必要があります。


 


今の政権は国防には一応安定していますが、もしまた民主党などの売国政権になれば一気に世界から孤立する、米国は支那共産国に味方をし出します。たちまち大正時代の悪夢が来ます。現に未だに民主党政権が無茶苦茶にした日米の国防関係の信頼修複は元通りになって居ません。


悪夢を復活させない為には、間違っても日本が『人種平等・・』など言ってはいけないのです。


不条理の極地ですが、12月8日に再度、それが世界の常識なのだと自覚するべきです。
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我が方の損害・・飛行機29機、潜航艇5隻
謹んで黙祷


拳銃の発射スタイル?

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2~3日天候不順で林道の見回り?中止!
家では『お局様』出勤中で不在・・・というわけで昼間8時間だけの城主です。
物置から古い本を出して見て居ます。

その中で見つけた 拳銃射撃の写真からです。

         陸軍 憲兵さんの 『14年式拳銃』 射撃です、気迫があります。
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        海軍・水兵さんの 『陸式拳銃』 射撃訓練、両手でしっかりと握ってます。
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どちらも実戦的拳銃射撃の訓練です・・と昔に戦地帰りのオジサンに聞いたのです・・
知ったような事を言う私は鉄砲の経験は、子供の頃、水鉄砲を撃ったのみです。

本物の鉄砲は知りませんが 『本』 では・・
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・・・と載って居ましたが上の二枚の写真のようにしなければ、これでは多分当たらないと思います。

と、警察も気が付いたのか 15年前にスタイルが変わったようです。
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   これでも一匹の犬に3人が13発撃ってようやく倒した・・・基本的に日本人は拳銃が下手なのでしょうか?

          ついでにですが、陸軍の特別操縦見習士官という飛行機の操縦学生も
          14年式で訓練している写真があります、そんな時間あれば操縦教えてやれば良いのに。
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           『こんな豆鉄砲の訓練より飛行機の操縦したいなぁ~~』
           『何発射ってもアタランなぁ~~』
                        と言って居るのでは、と想像してます。

        映画見ても、米国人は開拓時代から拳銃で人間殺し続けた歴史があって、迫力あります。
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本物の鉄砲撃ったことの無いオッサンの面白くない拳銃射撃話でした。
多分、死ぬまで鉄砲撃つことないでしょうね・・・(苦笑)

こんなお姉さんなら、撃たれて死んでもいいなぁ。
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零式小型水上偵察機

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古い雑誌からです


20年くらい前の雑誌を取りだして見て居て、以前にアップした事のある
帝国海軍の伊25潜水艦の記事を見つけました。


文面はともかく、イラストの『野原 茂』と言う人の零式小型水貞が素晴らしいので転載します。 (無許可です、スンマセン)
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潜水艦の狭い、土管のようなスペースに入って居る「柿の種」のような物体が水上機に変身するのが分かりやすいイラストです、野原茂さんて凄いイラスト名人のようです。

この飛行機で二度アメリカ本土を爆撃した藤田少尉
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 尚、参考の雑誌(名前は書きませんが)には何か所も誤りがあるのでご注意下さい、誤りの一つに・・

伊25艦長の田上明次中佐を後に戦死と書いてあります。


相当失礼な・・・田上大佐は我が地の英雄で伊25潜艦長から潜水艦隊司令になられて終戦時大佐でした、戦後は長く神奈川県にお住まいでした。
(伊25潜は後任の艦長・小比賀勝中佐で昭和18年9月に消息不明、
10月24日全員戦死と認定――黙祷)


(出身地の一志郡河合村には「ハワイ9軍神」の稲垣清兵曹長と同村で先輩です。)
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とんでもない映画で見つけた「南部拳銃」

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B級映画


『沈黙の鎮魂歌』


スティーブン セガールの荒唐無稽なドンパチの内容ゼロ映画です、


見る気もなく「鬼平犯科帳」の長いコマーシャルの時間にチョロチョロと見ました。


最後に退治されるロシアンマフィアのボス・ミカエルを演じたイゴール・ジジキンの持って居た拳銃が銃身の長い変わった形なので、なんという拳銃かな?

と、注意して見て居たら銃の上からのシーンがありました。

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驚いた事に特徴的な銃の上部の形で「南部式」と分かりました、南部甲か乙かはさすがに不明ですが・・・間違いなく南部式です。
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興味ある方は御一見のほどを!


凶悪なボスが持つには形が変わっていて、ボスらしくマニアックに見える? のですが・・

性能は命中精度のみ!弾丸の威力は弱く、実包の補充も出来ない8ミリ南部を現代の凶悪なロシアのボスが持って居るシーンに思わず「アホか、こいつは」と思いつつも映画製作者のお遊び?かな、


まあ、映画の中だから珍奇な銃を使ったのだと思う。


いっそのことモーゼル軍用拳銃なら迫力も威力も、スクリーン上の見栄えも・・・
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と、どうでも良いようなB級映画に登場した南部式の話しです。


 


興味ある方、映画は見なくても最後の10分少しです、南部式がチラっと見えますよ。


それから・・最近気付いた美女のことですが、若い可愛い女性だけではありませんね~~~。
やや歳とってますが可愛い女性を発見、名前までは知りませんが・・
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こんな
可愛いお姉さん
見つけました。
多分30歳位のようですが・・綺麗です。


幸運な人の話です

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大昔、昭和41年に高橋部隊戦友会で発刊された『想い出はきのうの如く』
  第15師団第二野戦病院・通称高橋部隊(軍医少佐高橋新伍指揮)、
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この部隊は悲惨な激戦場の野戦病院の記録が主ですが・・・・
とんでもない変わった話だけ紹介します。


 複数の軍医さん衛生兵さん達の記憶なので確かに事実のお話です。


 一人の兵隊が泣きそうな顔で「野戦病院ですか、私の指を返して下さい」
事情を聞いてみると、
この兵士はマラリアで高熱を出して意識が無くなり、気が付くと夜になって居て寒いので目覚めた、
左の親指が無くなって居た、野戦病院の衛生兵が死んだと思って遺品として親指を切り取って移動していったのである。
「親指が見つかっても、もう腐っていてダメだ、親指が無くなっても命が助かったのだから有り難いと思って早く原隊を探して追及しなさい」と手当をしてやった。


この話は当の野戦病院の衛生兵が当時の事を
「行軍で疲労困憊して意識不明となり倒れたのを看ると脈は振れず瞳孔散大諸反射消失し、呼吸停止あり、呼べど揺すれど手応えが無い、行動中夜間であり、部隊氏名を書き、遺骨の一部として母指を切断して路傍に片づけ土をかけて前進した」
ところが何時間かしてこの兵隊がおぼろ気に意識回復し、
(別の方の記憶では夜半から雨が降って来た、と言って居ます)


意識の戻った兵士は頭上を黙々と行軍する兵隊に
「ここは何処ですか、三途の川ですか」と問いかけたところ「馬鹿野郎、生きたかったら付いて来い」と言われて・・・・・これは三人の方が病院の日誌に残しているので事実でしょう。
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 もう一つは 同じ部隊の斎正男軍医中尉(戦後広島で医院開業)の体験記を二つ。
チドウイン川を舟艇で後退する、そこで息を引き取った兵を一人一人土を掘って埋めたのだが、最後の引き上げの日、土を割って地面が上下すると云うので掘り下げて見ると、生き返った兵士が「無茶しゃあがる」と、茫然と前を見つめていたのに驚いた。


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また同僚の軍医が苦り切って話したのは、象に3人の患者を乗せて後送するとき、
一人の兵士は意識朦朧として気息奄々、脈も微弱で明日までは持てまいと思って極楽往生を願いながら(今で言う安楽死)注射したところ、翌日になってその兵士は奇跡的に息を吹き返した、そして「昨日の軍医さんは親切な有り難い軍医さんだ、夕べはグッスリ眠れて、今日は元気になりました」
もちろん此の患者兵は象に乗せて後送した、ということです。
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 読んで思ったのは≪運≫の良い人は何処までも運命に恵まれているようだ、と言う事です。


 悲惨なインパールでも幸運な人の話で僅かですが救われました。


緒戦の事ですが
機関銃兵の話、シンガポールに進行するとき、マレー半島で敵の砲弾の破片で腹を裂かれた兵士が腸を出して倒れた、意識がはっきりとしているのだが衛生兵は居ないし腹から腸を出している戦友の手当の仕様もない、取り敢えず跳び出て居る腸を裂けた腹に押し込み、横に転がって居る自転車のチューブで包帯替わりに巻いて残したまま自分達は前進した、
「あいつは戦死した」と思っていたがシンガポール陥落後野戦病院の前を通りかかった時、病院の中から「おーい」と呼ぶ声で見ると、あの腸を出していた戦友である、
「軍医さんから応急得当てが良かったから・・命拾いしたんだぞ、と言われた」
この二人は無事に復員されて居ました。
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 運の悪い人の話も載っていますが、年末に向かって運の良い人の話だけにしました。

     やや歳をとった綺麗なお姉さんです、幸運の女神です。
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カブトガニと銃鎧

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カブトガニ て面白い形で興味がある海の生き物です。
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ネットに詳しい絵が載ってます
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これを見て居たら戦時中の変わった防弾鎧を思い出しました
雑誌のコピーをスキャンしてるので不鮮明ですが・・・
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似てませんか?
もしかしたら・・帝国陸軍さんがカブトガニさんに無許可でパクったのでは(笑い)

本当は真剣に考案しのだと思いますが、一世紀後の今みると、思わずニヤリと見てしまう形ですね。

それ以上にカブトガニって面白い形です
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ゴツイ鎧の下は小さい身体です、絶滅しないように保護して下さい。

今日の美女です
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勘違い馬鹿の育児休暇は職場放棄

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国会議員の最低男・アホ以上馬鹿以下の・・
まずこの男から議員削減したらぁー。
その前に職場放棄で解雇してほしい

国会議員のアホの極みです。
育児休暇は普通に働く人のためにあります。
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この宮崎というアホ以下馬鹿以上の男は・・・・日本の希望を潰す政治・・・を目指してるようです。

普通では育児で休むのは全く問題ありませんが、選挙で選ばれた議員は議会に出て一票を投じる職務が重大です。
これを病気・出産以外で休むのは 『職場放棄』そのものです。
しかも『職場放棄』を宣言する以上『確信犯』です。直ぐに辞表を出すのが、 ≪日本の希望を創る≫ことです。

育児で休みたいなら辞めて育児に専念したらいいだけです、
公務員と議員の育児休暇は職場放棄だと国民の殆ど (一部の無知国民以外です) が怒りの視線で
この男を見て居ます。


政党の恥! 大陸・半島の侵略の危機がある国難の時代に・・
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京都第三選挙区の選出住民はこんな馬鹿を 青年局次長にしてるのですか?
京都の人間の相当数は社会通念も常識も無い男に一票を投じた恥を自覚して下さい。

怒れる国民より
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一月・小野田少尉が亡くなられ一周忌

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昭和のサムライ・小野田寛郎さん。
去年一月の訃報でした、最後の大和武士が居なくなり早一年経ちました。

去年の116日、東京都内の病院で死去。91歳。
≪ 大正10年に和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に陸軍中野学校二俣分校を卒業。同年12月に情報将校としてフィリピンに派遣された。終戦後も作戦を解除する命令がないことからジャングルで潜伏を続けた。島を訪れた元上官に終戦を伝えられ、49年3月に帰国した。
その後、一時はブラジルに渡り牧場を経営。青少年の育成にも取り組み、
福島県に開いた「小野田自然塾」などで、ジャングルで生き抜いた
精神と経験を伝えた。≫
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ルバング島で小塚さんの生前の言葉
「隊長、早く戦死した奴らの方が楽だったですね」
この重い言葉が小野田さんには亡くなる日まで続いていたのです、
今は島田庄一伍長と小塚金七一等兵と一緒に日本の現状を嘆いて

いられると思います。

 ・・・・ 黙祷・・・・
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 小野田さんに頂いた、直筆のサインです

――――下らない私的な事です――――去年も言いましたが・・・
小野田少尉帰還の年に長女が生まれました。
小野田さんのような意思堅固にと ≪寛≫ を名前に入れました・・・
これはやや思い違い(苦笑)でした。
 
『男』の子には良いのですが私の所は『女』の子です!
頭も意思も弱い私に似ずに・・
娘は確かに意思は強い!良く勉強も頑張った! が
女性にしてはあまりにも意思が強い!
強すぎて家内以上に私の欠点を指摘して怒る。
99㌫欠点人間の私には・・生まれた時 ≪寛≫ の一字を入れなければとやや反省の現在です・・・
日本男子なら小野田少尉に似て欲しいが・・女の子には不要でした。

『寛』の一字を付けた娘1号と孫1号です。
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今年もよろしくお願いたします。

零戦のスピナーの利用法?

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海軍の零戦の利用法(?)
正月ボケのままです。
頭の中は食べ物と酒・ビールのみです。

 これではアカン!と読書・・・しかし、食べ物の所で思考停止です。

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ラバウルでの話です、主計科から2キロも離れた飛行場の搭乗員待機所までトラックの荷台で運んでくる味噌汁は冷えたりこぼれたりするので、味噌だけもらって来て、飛行場のあちこちに捨てられている零戦のプロペラカバー(スピナー)を外してきて、逆さにして鍋代わりにすると、大きさは一寸缶ぐらいの大なべになった。


味噌と野菜類を入れると・・ホッカホカの味噌汁が出来て激しい消耗戦で疲れている搭乗員が「ウマイ、ウマイ」と搭乗員達の大好物となって食欲増進、お代わりするなど好評だった。

≪ イメージから下手なイラストを描きました、雰囲気だけ感じて下さい≫
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これは海軍飛行兵曹長・杉野計雄という人の『撃墜王の素顔』の一文からです。
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( この方は昭和14年呉海兵団の機関科から15年操縦練習生・丙飛3期・操縦2期で土浦に入隊、筑波航空隊から終戦まで飛行時間1994時間・撃墜32機。


戦後、昭和28年、第一回操縦要員として海上自衛隊に入って館山航空隊を開隊続いて鹿屋航空隊を開隊して米軍貸与の航空機の受領と搭乗員の養成に功績を残した元三等海佐 )


 


飛行兵の変わった食べ方のもう一つです、


筑波航空隊の練習生時代に下宿で先輩に教えられたのは キュウリ、玉ねぎ、ショウガの新芽を買ってきてよく水洗いして(玉ねぎは刻んで)味噌をつけて噛ると大変おいしい・・そうです。


生鮮野菜の少ない海軍さんのビタミン補給の生活の知恵だそうです。
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写真の谷水上飛曹は志摩の出身だそうです、
何時かお伺いしたいと思って居ます。


 
食べる事になると、何でも真似をしたくなる貧乏育ちの私も、さすがに零戦のスピナーの鍋は無理です、 がキュウリ、玉ねぎショウガの新芽は手に入るので近い内に味見をやってみようと思います。

      発刊・光人社です、よければお読み下さい、素晴らしく良い内容です。
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この本を買うと・・もれなく、このような美女が・・付いてきません・・
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新聞に、ニホンオオカミ松阪?

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飯高でニホンオオカミ・・らしい?の記事です。


我が家の『お局様』の親しい友人より お送り頂いた記事です、感謝!


ニホンオオカミらしい痕跡を見つけて地元の人や某大学の有志が調査を始めたそうです。


 大騒ぎしなくても、今でも大台・高見山中にニホンオオカミは確実に山中に生息しています、が・強引に探さづにじっくりと地に足を付けた観察をしてほしいものです。
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だだ、何よりも嬉しいのは『ニホンオオカミ』らしい云々と新聞に出た事で、私の一番気になって居た心配が無くなったことです。
          その心配とは
新聞報道で貴重な日本古来の生物が ≪野犬と間違われて捕殺される≫ と言う不幸なことは無くなりました。
地元の人達が真摯にニホンオオカミの生存を確認しようとすれば、
野犬と間違えてしまうような無知な人でも、もし見つけても殺してしまう事はなくなります。


 20年前、拙著にて、ニホンオオカミは奈良と三重の大台山系生息していると書きましたが・・


非常に賢いニホンオオカミは山の木々の間から人間を見つめて行動を観察しているでしょう、簡単に姿を見せるような動物なら、明治初期に絶滅しています。


昭和30年代には大台山頂で極一部の人と共存していましたが、その極一部の人間が亡くなって行くにしたがって下界の心情の荒れた人間から遠ざかって行っただけです。


 

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数年前高見山頂で見つけたニホンオオカミの糞の写真です、肉食特有の丸ごと食べた動物の毛が混じって居ます、キツネの物より二回り太い糞です。


 ( 2013・11月 ニホンオオカミと河童)の縮小版をヤフウブログの
『ニホンオオカミと河童』の1・2にアップしています、読んで頂ければさいわいです。


≪その文章の一部抜粋≫


 細々と生き残っているニホンオオカミ達の運命・・麓に鹿が増え、それに釣られてニホンオオカミが麓に出没するより先に、野犬化した飼い犬が山間で鹿を襲うのが先でしょう・・・・


飼い犬が野生化した野犬は人間や家畜”も襲いますが、
 ニホンオオカミは人間はもとより家畜も襲いません。
 しかし人間はニホンオオカミと野犬の区別が付きません、


再び明治の北海道の蝦夷狼と同じように野犬と混同されてニホンオオカミが殺される恐れがあります、ニホンオオカミが人間の被害者!になるのです、


細々と生き延びてきたニホンオオカミが思慮分別のない“人害“の犠牲になる心配があります。


 
・・・と心配していましたが、この新聞記事からこの「野犬と間違われ殺される・・」と言う心配は無くなったようです。

後は大騒ぎせずに、逆に何処からかニホンオオカミに観察さている・・と自覚して痕跡を探して下さい。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新種の狼も発見された例があります、去年の7月30日

国外の最新のオオカミ情報で『ニホンオオカミ』ではありませんが、ユーラシア・東アフリカでの新種の発見です。
国外とは言え、今回の新種のオオカミは小型でニホンオオカミと体型も優しい顔付もよく似てるのが特徴です(もっとも遺伝子的には似て非なる別種です)
小型のキンイロジャッカルと思われていたのですが、別種の(新種)のオオカミと認定されました。
        小型で可愛い顔付は、多分ニホンオオカミもこのような
        顔立ちと姿だと思います。この顔で木々の間から
        人間を見て居ると思います。
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小型南部と94式

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古い空挺隊の演習の本を見て居て・・・
考えようでは珍しいのかな?

        銃剣を着けた38騎兵銃
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空挺隊員が全員94式拳銃を持ってます、こんなに沢山94式を構えたところは珍しい。
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指揮をしてる将校は何んと!小型南部を構えています。
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空挺隊員は今も昔も選りすぐりの精鋭ですが、長い軍刀を持って飛び降りるのは
苦労されたとおもいます、自衛隊の空挺隊員だった方(山彦様)に軍刀持って降りる
のは・・と感想を御聞きしたいです、帝国陸軍様は結構無茶したのでは?
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服装は今の自衛隊も似たように思いますが飛行機が80年前の時代を感じます。
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見るからに古臭い飛行機!
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この瞬間・・私なら恐怖で心臓麻痺で≪戦死≫してます。
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今日は古い空挺隊の拳銃写真だけのつもりが・・飛び降りる写真も・・
勇ましい空挺隊ですが必要な物は 精神の集中力・バネのような柔軟体力・
の二つは不可欠と書いてありますが・・・私は両方とも欠落してます、残念(涙)

鬼に金棒 今では空挺隊に美女です。
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桜田議員は正しい歴史観

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慰安婦なんて捏造名詞です!
桜田議員の言う通り、あくまでも≪民間の職業売春婦≫です。

桜田議員は極々普通の事を言ったのですが、例によって馬鹿マスコミが売国報道するので、
調子に乗った南朝鮮の外交省報道官が
「歴史の前に恥も知らない無知な妄言、一顧の価値も感じられない」 などとコメントしてるが・・
ちょっと待て!!
          此の言葉は南朝鮮の捏造慰安婦で国策の強請りタカリのアンタの国の事でしょう。

          笑顔で日本軍の後を追って歩く・・・これが強制的に連れてこられたと言えますか?
          10日ごとの兵隊さんの給料は全て この朝鮮の女性に「預貯金」したのです。
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日本で 「売春防止法」 が出来るまで、(昭和33年頃までは)全世界共通の職業・・・今も
非合法で世界中にある職業です。

今も昔も若者が給料をドンドン注ぎこんでます、いわゆる元金利子も無くなる肉色銀行の「預貯金」。
現代の若者も風俗店の出稼ぎ女性に給料の殆どを「預貯金」させられています。
荒稼ぎの主力は出稼ぎの支那・南朝鮮女性という現実が
分かって居ながら自虐報道するマスコミは日本の垢(赤)そのものです。

今から50年もすると南朝鮮出身の風俗店従業員が 「日本の慰安婦にされていた、賠償金払え――」
と又も ≪風俗少女の像≫ を作りだすのでは!!!

再度言います・桜田議員頑張れ!正しい事は正しいのです。

                        垢(赤)マスコミはサル以下ですねー。
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変わったオートバイ+フロート

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≪モーターサイクル少年画報≫という昔の本からですが、

  「大野一郎と日本学生モーターサイクル・クラブ」が発行

 
この中に面白い写真がありました
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バイクに飛行機のフロートを付けたモーターボートです。
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 よく見るとバイクからチエーンでスクリュウに動力を伝えているようです。


面白そうですが・・・今の日本では絶対無理なフロートボートですが・・


バイクの免許に+小型船舶免許+船舶検査が必要です、船舶検査は99パーセント却下、

運転も、ライフジャケット装着せずにバイクに跨っているのとヘルメット被って居ない!

と海上保安官サマと お巡りサマに≪任意同行≫で・・・法時国家日本に涙涙涙・・でしょう。

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他にも面白い写真ありますが著作権があるので数枚だけです(無断借用お許し下さい)

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一月に没した空の武士

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歳月人を待たず  と言う諺があります
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出典写真は昭和18年の・・・
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  一月には小野田少尉以外にも物故された大和武士がみえます。


「檜 与平」ヒノキ ヨヘイ という方が平成三年一月に亡くなられました。
大正八年  徳島県三好郡三加茂町 に生まれた、 県立池田中学校(旧制)から陸軍士官学校卒業の時、航空科を志願したが「欧氏管狭窄」で不合格、軍医に打ち明け治療に専念ようやく適正検査に合格し飛行将校としてスタートした。


 この人は小野田少尉と共に、日本最後の武士、本当の「ラストサムライ」です。


 檜 与平 少佐の戦歴も驚愕します。


 陸士53期
22歳でビルマの加藤隼戦闘機隊の中隊長として「一式戦闘機・隼」に乗る。
『加藤戦隊長の護衛』が主任務で自由な空戦はあまりする機会がない、それでも昭和17年1月31日 シンガポール上空で 英 第238飛行隊のハリケーン 二機を撃墜、最初の戦果をあげて以後活躍を続けた。


その間、P38ライトニング ・リベレター爆撃機 等を撃墜、


また檜少佐自身も空戦で被弾負傷、完治を待たず一ヶ月の入院で戦線に復帰した


昭和18年11月25日  ラングーン上空で 一式戦闘機に乗って、日本軍で始めてP51ムスタング を撃墜した。


米第311戦闘爆撃航空群の指揮官、ハリー・R・ミルトンjr大佐は檜中尉の一撃で被弾墜落、落下傘降下して着地、日本軍の捕虜となり機体がP51と証明されました。


 その戦闘の二日後 27日今度はP51との戦闘で右足を膝下から銃弾で吹き飛ばされ、
右膝下、片足をなくしたのです、出血の苦痛と睡魔の中、500キロ近く飛び続け基地に帰りついた。
(この前日 敵の夜間空襲の邀撃で四回出撃し、一睡もしていなかった)


 
体力の回復まで戦地の病院で治療、そして輸送船で無事内地に帰り、「戸山が原 陸軍病院」で入院治療をします、
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普通片足が無くなっては戦闘機のパイロットとしては致命的です。


しかし、驚異的な早さで回復、右足は義足の状態で退院命令を待たず病院を抜け出しました。


母校の三重県明野の陸軍飛行学校、戦闘機学校に着くと直ぐに片足で、まず旧式の九七式戦闘機に乗る練習から始めました、ジュラルミンの右足と気づかない整備兵が居たほどです。


同時に戦闘機教官としての任務も果たします。
病院では仕方なく後で退院許可が軍医長から出ました。
(本来は軍隊の病院は退院許可がないままでは逃亡として処罰されます)


そして教え子の甲種学生(士官学校卒業の新米将校)を率いてそのまま防空隊を指揮。


その後、飛行第二集団 第二大隊長として「五式戦闘機」で明野、泉佐野飛行場から出撃して戦う、後に状況の変化で部隊名に変動はあるが終戦まで明野で戦闘の指揮官として編隊の最先頭で戦う。


 明野の教導飛行111戦隊で隊長として「五式戦闘機」に乗りますが
フットバーの小さい「五式戦」の為に「義足」を伊勢の鍛冶屋さんに頼んで改造します。


そして戦隊を率いて空戦に出撃、活躍しました。


昭和20年6月5日、大阪方面に大挙襲来した B29を邀撃します、


戦隊は奈良、伊賀上野、熊野、松阪 近畿一帯の上空でB29を6機撃墜,不確実5機、落下傘降下した敵兵は23名、
伊賀上野で撃墜したB29が新聞で発表されました。


しかし部下の 日比少尉、阿部少尉が紀伊長島上空で体当たり、戦死しました。


この時もですが、檜少佐は無き部下や教え子を思い出してはいつも涙ぐんで・・・
それはかつてビルマのラングーンの空でも、日本の空でも、涙を抑えて口ぐさんでいた部下想いの少佐でした。

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・・檜少佐の戦闘の一例です・・


昭和20年7月16日 伊勢から松阪に掛けての上空で米軍506大隊457飛行中隊の隊長、長い名前の人です、


ジョン ウエズリー ロング ベンボウ大尉(ノース カロライナ生まれ、檜少佐の一つ上の1916年・大正7年生まれ)の「P51ムスタング」を 「五式戦闘機」で20メートルに接近、6発の20粍砲弾で撃墜、
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ベンボウ大尉機は片翼を吹き飛ばされ、津の西方、 美里村 の長野城跡の山中、桂畑(かつらはた)に激突しました、勿論ベンボウ大尉は即死です。


なお日本軍戦闘機でのP51の初撃墜と最後のP51撃墜をしたのは偶然にも檜少佐でした。
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平成十一年私は雲井氏と当時の事を知る美里村北長野の方(馬杉宗伸さん・神主さんで元理科教師・・本人は英語の方が得意だがなぜか定年まで理科を持たされた、と英語教師の雲井氏に笑って話された)
この三人でP51墜落跡を調査しました、


墜落した急な山城の斜面に日本の植物生態系に無いアメリカ産の雑草が数本生えていたのは、多分、ベンボウ大尉の衣服に種子でも付いていたのでしょう、 雲井氏が写真を撮ってベンボウ大尉の遺族(甥がドクターで健在)に送りました。


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不鮮明ですが・・
もう一つ、檜少佐は指揮所から飛行機の所まで広い飛行場を他の飛行兵のように走ることは出来ません、


義足を飛行機のフットバーに入るように改造した為に走るどころか「歩く」事も難しいのです。


その為檜少佐はサイドカーに乗って飛行機の側まで行きました、ここでも努力したのです。


片足でサイドカーに乗るのも普通の人には出来ません、乗れば判りますが両足でも慣れるまでは難しい乗り物です。


 


なお蛇足と思いますが檜少佐の7月16日の戦闘のとき部下(教導飛行一一一戦隊は明野第一教導飛行隊と部隊名は変わっています)の児島中尉の五式戦が松阪と一志の山中深くの上小川(かみおがわ)上空で被弾して墜落しました、中尉はパラシュートで脱出して髯山(ひげやま)山中で地元の人々に救出されました、


この中尉の足跡を調査していて聞いた話しです


「おじいさんが子供の頃よく話していたのは・・その日落下傘が髭山の上の方に降りてきた、


『アメリカやー!やっつけろ!』と数人が鍬や鋤を持って髭山に登っていくと上から『おーい日本だー、陸軍だー』と日本の飛行兵が降りてきた、脚を怪我していたが無事に明野からの迎えの車で帰った」


と教えてくれたのは私と同世代のおばさんでした、


しかし無事に帰還した中尉が目に浮かぶようで気持ちよく帰ってノートを書きました。


なおこの頃上小川地区には若い男は出征してだれも居ません、


「アメリカをやっつける」と勇んで行ったのは老人ばかりだったのです、


その老人達・といっても六十歳前後ですから今の私と変わりません、今も昔も年寄りは自分の老齢に気づかず気持ちだけは元気なことに感心しました、


(もし児島中尉でなくアメリカの飛行兵ならピストルを撃ってきたかもしれず、怪我人が出たかもしれません、勇敢も時には危険です)


檜少佐の事から少し外れてしまいましたが言いたかったのは優秀な指揮官の下では部下も優秀に成っていたようです。


       一月の物故英霊の記憶です  黙祷


二種類あった「憲兵」

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・・・・・・昔一度アップした記事の再掲です・・・・
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       「憲兵」には二種類あった!と言う事実。


戦後から今までの『憲兵』のイメージは大東亜戦争以降の内地で威張り散らし無謀な振る舞いをする・・という姿がデフォルメされて、

事実を知らない馬鹿なドラマ作家などの作品でこのイメージを刷り込まれています。


     ≪ 憲兵は文武両道に優れた極少数の兵士 ≫


一般の兵科の中から選抜された基準は優秀な戦闘員の経験と資格が有り、学力優秀な者だけ憲兵学校で教育したのです。


終戦まで支那大陸や朝鮮半島の憲兵隊では警務や諜報、それ以上に匪賊討伐に分隊で出動して激戦を度々重ね、当然戦死者も多数出して居ました。


(有名な俳優の里見浩太朗さんの父上も憲兵曹長で大陸で 匪賊討伐戦闘で戦死、当時の新聞にも大きく出た勇敢な野戦憲兵でした・日本憲兵隊史より)


一例です、有名な甘粕憲兵大尉のような歴史に残る人格者で優秀な人が沢山いました。

私の地方ですが元憲兵曹長が大里村と言うところでは戦前戦後に「森慶」さん、と愛称で呼ばれ村長になって居たほど『元憲兵』は住民に慕われて居ました。

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       ≪なぜドラマでは悪人扱いされるのか≫


もともと「憲兵」は大東亜戦争前頃から粗製乱造された、「野戦憲兵」の経験のない、

いわゆる『戦場で敵の弾の下をくぐったことの無い』戦闘に参加せずに内地の分隊に配属されて威張って居た、民間人が目にしたのは帝国陸軍兵士としては未完成の人間に権限だけを持たせた内地憲兵が多数だったからです。


このように大東亜戦争の開戦前後には実戦経験の無い者まで憲兵にした結果・・戦場経験しないまま内地の各憲兵分隊に配属されて軍人から民間人に威張り散らして嫌われたのです。


多分、このイメージがドラマ作家などの浅はかな知識になったのでしょう。


同じ「憲兵」でも大陸・半島では終戦まで敵兵や匪賊と戦い続けて多数の戦死者を出していた野戦憲兵(外地憲兵)とは全く別の『憲兵』としか言えない内地の『粗悪憲兵』でした。


 この粗悪「憲兵」が無謀なほど威張って居たのは、内地は『戦場』では無く戦闘中の部隊の兵士が居なかったからだと思います。


 但し、航空隊では空襲が有る度に飛び上がると戦闘があり、戦死する最前線の殺気だった集団です、空戦に上がれば戦死という極限にいて、その捌け口に・・『憲兵』に敵愾心が有ったのでしょう。


 
     海軍の例を二つ


松山の三四三空の若手搭乗員六人が夜間、松山の憲兵分隊の一人から「敬礼しろ」と懐中電燈を突き付けれた、それをきっかけに「憲兵軍曹が海軍の上等飛行曹に敬礼しろと言うのか・・」

と殴り飛ばすと軍刀を抜いたのでこれも分捕ってドブに放り込んだ、そのあと大村の駅に行くと外出していた他の二組も集まってきて大村の憲兵分隊19名を全員叩きのばして飛行場に帰った。


憲兵隊が翌日彼らを軍法会議に引き渡せと言って来た時、三四三空の源田司令が


「今九州の空を守っているの三四三空の彼らだけだ、それでも欲しいと言うなら骨になってから渡す、帰りたまえ」


それ以後憲兵隊から何の連絡も来なくなった。


 空母「大鷹」の戦闘機隊員が佐世保で士官下士官数人で歩いていると乗馬の「憲兵」が来たので将校と思って敬礼したが答礼もせずに通りすぎようとした、 「まて」と一喝したら乗馬の「憲兵」は将校では無く馬を走らせて逃げようとしたので近くの腐った杭を抜いて、「降りろ」と軽く馬の脚を叩いた、馬は脚が崩れて「憲兵」は転倒した、


「憲兵がそんなに偉いんか!」と殴って「気を付けろ」と言って分かれた。


憲兵隊から文句が来たが・・・結局和解になった、が憲兵を殴った一飛曹は乗馬が骨折廃馬処分になった『兵器損壊』で外出止めの処分になった、と言いつつ飛行長の横山大尉が「馬の見舞いに行け」と言って一飛曹は外出整列の列外から人参を持って外出を続けた。
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これらは生還した方の手記ですが、陸軍にも二つありました、ただ此の方たちは戦死されて詳細は分かりませんが・・・


 


一件は二式単戦の部隊の飛行軍曹です、この部隊(二式単戦)の隊員は気の短い人が多くて離着陸も荒々しかったそうです、その隊員が基地外で「憲兵を無視した」と憲兵が飛行場に入って来た時、基地隊長が

「それは今離陸中の・・あいつだ、予備機を貸すから直ぐに追え、早く捕まえないと敵に体当たりするから」と言うと、 飛行機操縦の出来る筈もない「憲兵」は悔しそうに帰って行った、それを見て本人や仲間の隊員は大笑いした。

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あと一件は九九双軽が台湾から資材補給に九州の飛行場に来た、資材補給して翌早朝出発の予定で搭乗員、この時4名の乗員は飛行場の外で「最後の内地だ」と羽目を外して遊んでいた時に憲兵を殴ったらしい・・詳しい事は分からないが・・・


飛び立つ前に憲兵を自分達の飛行機に引きずり込もうとしていたが大尉の飛行場長がようやく憲兵を助け出した・・・と言う話と、


三名来た憲兵のうち一名が離陸準備中の飛行機に乗り込んで捕まえようとしたが飛行機は動きだして、途中で滑走路に憲兵を落として台湾に帰って行った・・・と記憶していた人。


聞き書きの手記なのでどちらが本当かは分からない、と言う事です。
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いずれにしても、選び抜かれて憲兵学校を出て、野戦で苦労した「憲兵」の方達には終戦直前の内地「憲兵」の振る舞いには心を痛めてみえることとお察しいたします。


     ≪ 正統派の『憲兵』の名誉のための追加です ≫


戦後の、民間人のいう「憲兵」に対する悪評の殆どは『警察』特に『特別高等警察』と混同している事も事実です。


地方の「憲兵隊」は多くても10人前後で、軍人・軍施設の取り締まりを任務としていて、組織の小人数からも民間人にまで手が回らないのが実情でした。

よく『憲兵に引っ張られた』と言うのは警察か思想関係なら特高だったのです。

逆にいつも威厳を持って歩いている「憲兵」は礼儀正しかったと言う人が居ました。

私の地方には津の阿漕に憲兵隊があったのですが、中学校の頃、

そこに出入りしていた人に聞いた事があります。


「憲兵隊の人は中(阿漕憲兵隊)に居る時はにこやかで丁寧な物言いだった、息子が予科練に合格したと言ったら『よかったなぁ、しかし陸軍の方に志願してくれればよかったのになぁ・・』と笑いながら祝ってくれた、それに比べると大門(津の警察署)の巡査は怒鳴り散らして質の悪い連中ばかりだった」
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これが同じ「憲兵隊」でも、二種類あった! と言う事実です。

同じ姓の人間三種類

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今年、1月も終わりに近いです・・・が!!


最悪最低の人間が出てきました。


一色某という建設業者らしい人間です、甘利大臣の秘書を何年も掛けて罠にはめる・・
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このやり方には防御策は皆無です。


特に選挙区の住人がニコニコと寄って来れば「性善説」の日本人はこの「善人風トラップ」に引っ掛かるのは自然です。


この一色某なる男は日本人では無いのでしょう(怒り・怒り・・・)


私の中では、共産・社民・民主の罠だと思ってますが・・違っても同じ種類でしょう。


 


今まで日本人のゴミと思って居たのは
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数十年前ですが・・瀬戸内海で起こった「シージャック」事件の犯人を、フェリー乗組員の命を守る為に!止む無く射殺した警官を『殺人』と言って告発した弁護士集団が最低最悪の国民のゴミと思って生きてきました。


そう思って居ましたが又ゴミ人間、いや人非人が居ました!


      ・・・世に悪の種は尽きませんね~~。
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富士山で登山中に遭難したアホの家族です、救助のヘリは制限高度以上の3200メートルのホバリング不可能高度で決死的救助を敢行、乗員は死を覚悟して行動した、


が不幸にも遭難者が落下して死亡した、死んだのは気の毒だが好きな山で「自己責任」の結果でしょう、それでも家族は救助ヘリの乗員に感謝して当然です。


ところがこの家族は救助ヘリの所属市を業務上過失致死とか何んとかで告発した!


命懸けの救助に感謝どころか訴える暴挙、これが支那・朝鮮人ならあり得るかも知れないが・・これだけ異常なゴミ人間、それを受け弁護士は・・こいつらゴミ以下のウイルスです。


 世の中はかなり狂ってきたようで心配な1月でした。


 尚、尖閣の支那船事件の時に正義の行動で民主の悪を暴露した、元海上保安官の一色さんという立派な方が居ます。
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この一色さんは清く正しい日本人のトップです。


反して黒く醜い悪人のトップは 
≪瀬戸内海シージャック事件の弁護士集団 と救助ヘリを告発した人間以下家族 ≫ を抜いて甘利大臣を罠にはめた一色某が最悪人種のトップになりました。


このランクを付けた私は中道中間の普通の真面目で貧しい一色さんです。
                今日は 上・中・下 の同姓人間でした
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生タマネギをかじって空戦

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         ラバウルの航空糧食
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    食べ物の話と飛行機乗りの話


以前、海軍の人が「タマネギを生で味噌を着けて食べる」と言う変わった食べ方の話をしました。


やや勉強不足でした、熊本県では普通に生のタマネギに味噌を着けて食べる習慣がある?あった?ようです。


海軍の飛行兵はラバウルでは生鮮野菜の不足を補う為に内地からタマネギが到着したときは嬉々として生玉ねぎに味噌をつけてたかじったそうです。


それが何時の間にか ≪玉ねぎのビタミンは視力に効果がある≫ と分かってから搭乗員は殆ど強制的に生タマネギを出された、と言う事です。


タマネギには癖があってどうしても食べれな人もいるようです、タマネギの嫌いな飛行機乗りは困ったそうです。


その後、内地からの補給が無くなったラバウルではタマネギの変わりに塩水で煮た「ひじき」


がビタミン補給の替わりになってきた・・貯蔵の虎屋の羊羹、イナリ寿司の缶詰、ビタミン剤などの搭乗員用の食糧も無くなると・・・塩茹での「ひじき」ばかりになってしまった。


 
・・タマネギも無くなった頃のラバウルの飛行機乗りの健康状態・・・


空中戦を繰り返す搭乗員は極度の栄養不足から戦闘から帰って飛行機から降りるときに「目まい」を生じたり足元がふらついたり、通常では『飛行止め』になるほどの衰弱が蔓延して・・・優秀なベテラン戦闘機乗りが帰投途中で意識を無くして海没することが度々あったそうです。


この健康危機状態の様子の一例に「杉野計雄上飛曹」は66キロの体重が47キロに減っていたそうです。
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「本田稔飛曹長」も体重が激減して一週間に47時間の飛行勤務で栄養不足から血液の循環が悪くなって操縦席に座って居る尻が青紫色になり感覚が無くなってくる、そして眠くなって「はっ」と気付くと編隊から離れて降下している、そのまま海に突っ込んだ僚機も出てきた・・・。
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対する敵機と言えば、栄養満点、休養を十分に取って居る米国の飛行機乗りには想像も付かない半病人の日本の飛行機乗り一機に対して10倍100倍の機数でラバウル空襲を繰り返して来たのです。


この中で僅かな味方機で撃墜数を30機40機と奮戦した飛行機乗りは驚異の戦士、勇士だったのです。

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 このような話を知ると ≪生のタマネギに味噌をつけて食べた≫ のはまだまだ良い戦況状況だったようです。


上記のお二人は戦争を生き抜いて戦後は海上自衛隊と航空自衛隊の教官となって活躍されました。


しかし・・極限状態で空戦を続け・・・遂に戦死された方達に 深く黙祷。
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一月の締めくくりの『ラバウルの勇士』でした


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