宮崎勇海軍少尉
≪光人社・還って来た紫電改・宮崎勇著≫ より
海軍航空隊の戦闘機乗りの古参パイロットの方です。
平成24年4月10日、肝臓の病気により死去されました。享年92歳。
此の方は同年代の岩本少尉・斎藤少尉・坂井少尉などの古参の戦闘機の搭乗員として終戦まで戦い抜いた貴重な空のサムライでした。
終戦直後から病気に苦労されましたが、それらを克服してご長寿を全うされました。
戦後の『病』を生き抜いた幸運は『岩本徹三少尉』と真逆の運命の悪戯でしょうか。
宮崎勇元海軍少尉は戦後30年以上経った頃に奇しくも『零戦』と『紫電改』の見届け人になったのです。
昭和53年、愛媛県城辺町の海底で「紫電改」が発見され、地元に住んでいた宮崎さんに連絡が入った。その後の調査でこの「紫電改」は20年7月24日に未帰還となった6機の中の1機、ということが分かった。宮崎さんはこの調査、及び引き揚げ作業に協力した。
これがきっかけになったようで『還って来た紫電改』を出版している。
またこの年に、マーシャル諸島マロエラップ環礁タロア島で発見された 零戦15機の機体は、不発弾処理等に従事していた米国人によって発見されてその後修復れた。
そのニュースが日本放送で流され、マロエップの戦闘機部隊のパイロットだった宮崎さんが出演した。
飛行不能状態で密林に放置してあった、いわゆる廃機でも形状は残って居たのです。
(昭和57年、福岡航空宇宙協会の交渉により譲渡が成立し、翌58年、里帰りを果たす。 当時は戦後30年少し、そのサイパンでの修復作業には、旧海軍関係者も参加。 一応、三二型を模しているらしいですが・・・。)
このように宮崎海軍少尉は自分達の載って居た二種類の戦闘機の(残骸)見届け人になったのです。
このテレビが放映された後で突然、「津田幸史郎一等飛行兵曹」から電話が
『ミヤさん、私です、三沢で空中衝突した津田ですよ。テレビでミヤさんを見て・・・』
252空再編に内地に戻って三沢飛行場で編隊空戦の訓練中、急激なGが掛かって失神状態になってしまった津田機が下方から宮崎機に衝突、空中衝突は両方が殆ど助からないのだが奇跡的に(両方が熟練の操縦者だったのもあるのでしょう)破損した機体で不時着して生還したのです。
この後、昭和19年10月までフイリッピンで一緒に戦っていたが宮崎少尉は松山の343空の紫電改に転属になり、以後はお互いに消息なく双方が『戦死』してしまったと思って居たのです。
お互いに懐かしく話を交わし、岡山に住んでいた津田一飛曹が
『遠い所ではありません、一週間か10日くらいで松山にたずねて行きます』と電話が終わった。
その後、10日たっても津田一飛曹は来なかった、どうしたのかな・・と思って居ると一月ぐらいして奥さんから
『主人は死にました、宮崎さんに電話したあとで癌がみつかり、ほとんど手当する甲斐無く・・』
戦後を生ながらえて30余年、再開の直前に死んでしまった戦友!!
その後、宮崎さんが岡山へ墓参りに言った時、奥さんが言うには
『ミヤさんが生きとった、生きとった』
と繰り返し会うのを楽しみにしていたそうです。
『零戦』『紫電改』の見届けをしてから・・今の今まで無事に生きて居た戦友の見届けをすることになった宮崎少尉の心中やいかばかりだったでしょうか。
宮崎勇少尉の戦歴は生きて終戦を迎えたのが不思議なほど・・
それは、下手なアメリカの戦争映画以上の体験があります。
次は、そのフカのウヨウヨいる海に三度も落ちて、泳いで、
奇跡的に救出された事を書くよていです。
左側から見た零戦の操縦席