226 の磯部浅一 元一等主計
明日・2月26日は 昭和11年から79年経ちます。
226の計画から決起までの実質的な首魁は 磯部元大尉でした。
決起将校の殆どが陸軍高級将校の子弟(河野寿大尉の父は海軍少将)として裕福な育ちをしています。
唯一、磯部だけは普通の水飲み百姓の育ちです、当時の90㌫の国民と同じ、赤貧の中で育ちました。
普通と違うのは少年期より成績優秀でした。
山口県大津郡菱海村川原・長州の中心地の斎美小学校では全科目甲の
県庁表彰をされた心身共に優等生でした。
松岡という県庁職員が磯部に学問をさせたいと磯部を引き取り中学・幼年学校・士官学校へと資金援助して無事に任官したのです。
磯部は朝鮮大邱80連隊で少尉任官・陸軍経理学校を卒業二等主計に・近衛4連隊・野砲第1連隊・一等主計(のちの主計大尉)・
『11月事件』で村中孝次大尉・片岡太郎中尉・士官候補生5名は停職となった、半年後に自動的に予備役に編入される制度で・・
実質的にクビになった。
磯部は吉田松陰の影響下の土地柄で、その心情の基盤は松陰の
『悪を斬るのに時期は無い、悪は見つけ次第討つべきナリ』
という松陰の自負する≪狂の精神≫であった。
その磯部浅一が226の、いわば 決起行動の設計製作実行
の原動力でした。
普通には現役将校の安藤大尉や野中大尉が中心と思われて居ますが、
磯部の説得で安藤大尉がようやく決起に踏み切ったのです。
又、決起部隊の首魁は現役最古参の野中大尉になって居ます。
磯部浅一という人物は調べれば調べるほど・読めば読むほど強烈な
個性のある偉丈夫です。
磯部の妻・登美子はかつて磯部が80連隊に居た頃に、
ある少女を救って・・何年か後に妻とした。
綺麗で頭の良い奥さんですが磯部の死後4年で亡くなって居ます。
このことだけでも安物のドラマなどにはない本物の深い物語があります。
磯部に最も傾倒し尊敬していた三島由紀夫は色々と磯部を基礎に書いています。
(私は三島の226への想いこみの書籍には感動しています、が!
ただ不思議な、タテかヨコか知りませんが 『何とかの会』 やその仲間は気持ちの悪い究極のナルシスト集団で最後市ヶ谷で集団自殺をしています。)
15名の決起同志より約1年後、昭和12年8月19日 磯部は村中孝次・北一輝・西田悦
と午前7時から8時の間に処刑(銃殺)されました。
磯部浅一の獄中手記の一部
『今の私は怒髪天を突くの怒りにもえてゐます・・天皇陛下何んと言う誤失政でありますか・・何と云うザマですか・・』
と憤怒の手記ともう一方では
『銃殺されたら優秀なユウレイになって所信を貫くつもりに御座候へ共 いささか心配なる事は 小生近年スッカリ頭髪が抜けてキンキラキンの禿げ頭に相成り候間 ユウレイが滑稽過ぎて凄味がなく ききめがないではあるまいかと思ひ 心痛致し居り候・・・・』
生死を超越した凄味以上のユーモアの手記もある。
226事件の 磯部浅一 元一等主計という方の話でした。