「我ニ追イ着ク 敵機 無シ」
これは海軍の高速艦上偵察機『彩雲』の発した有名な電文である
ところが昭和二十年一月頃から鹿屋を発進する『彩雲』の半数以上が未帰還となった、グラマンに待ち伏せられて撃墜された。
最高速度が海軍式に約330ノット(615~620kh)高度7500mから9000mを巡航速度210ノットで写真偵察と目視偵察をした、もしグラマンに追尾されても3000mから上昇するグラマンは速力が半減している、
『彩雲』は逆に暖降下で330ノットにプラスアルファで全く追随捕捉されることはない、むろん水平でもグラマンより優足で離脱していた、このときに発信されたのが
文字通り
「我ニ追イ着ク 敵機(グラマン)ナシ」である。

昔、私は優足の『彩雲』が何故撃墜されるのか不思議に思っていた、
そして30数年経った最近(1995年・結構昔になりました)ようやく謎が解けた、
それは 甲飛2期飛行予科練 出身の 海軍少尉『安永弘』と言う人の『死闘の水偵隊』を読んで解った。
このように安永少尉という方は昭和十四年、巡洋艦搭載の零式水貞から始まって最後は陸上機の『彩雲』を操縦していた、その『彩雲』で鹿屋から沖縄海上の敵機動部隊の偵察出撃の当時の詳細が詳しく、説明してあった、それは一言でいえば
「彩雲の性能では無く、予備学生出身の機長の技量見識の未熟」による未帰還であった、
いかに優秀な歴戦の操縦員でも偵察席の機長(予備中尉)の命令には従うしかない、
グラマンの待つ方向に飛び立つしかなく死地に向かったのである、この頃では兵学校出身の士官は危険な沖縄方面には決して行かなかった、これは特攻隊も同じであった。
安永少尉のような機長操縦の『彩雲』はグラマンに待ち伏せされることなく帰還していた、それは最前線で歴戦を生き抜いて来た予科練の『職人精神と頭脳』である。
ヨタヨタと上昇中の『彩雲』は鈍足の状態で標的になっていた、
しかし安永少尉はコースを考えてそのようなヘマはしない、分かっていても上官には教えようがなかった。
熟練といえども安永少尉達は上官の予備学生の中尉に命令はできない、お願いするだけである、
「離陸して直ぐに志布志湾から坊津あたりに回って西に向かって、5000mまで上昇してから南に変針して下さい、燃料も酸素も十分にあるのだから・・とにかく高度を取っていればグラマンがいても余裕で離脱できますから・・」と何度も意見具申していたが・・・
それは予備中尉機長と同乗している歴戦を生き抜いて来た優秀な予科練後輩の操縦士と通信士を死なせたく無いからであった。
しかし新米の予備中尉連中は一人として進言を聞かずに佐多岬からの直進コースをとって・・これが駿足の『彩雲』が速度の劣るグラマンによって次々と撃墜されてしまった原因でした。
学生出身の予備中尉達も『予科練上がりの特務少尉の言う事を聞けるかぁ・・』と・・・立場上のプライドもあったのでしょう、実戦を知らない予備中尉機の搭乗員が気の毒で哀れです。
しかし戦場経験からグラマンが待ち受けていると知りつつ、まだ高度も速度も十分でない『彩雲』の操縦桿を握っていた熟達の予科練出身の人達は安永少尉の具申するコースを飛びたくても飛べず犬死して逝ったのです。その心情を思うとやりきれないものが有ります。
余談ですが「彩雲」を欠陥機というあアカ印の
アホがいますが操縦・整備の熟練航空隊では(安永少尉の居た部隊等)では期待を裏切るような欠陥は無かったようです。

これが撃墜されるはずのない駿足『彩雲』の撃墜された長年の『謎』の答えです。

