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忠臣蔵の大嘘・1

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 ボロボロの蒔絵は我が家にあったものです、なぜ有ったのか不明。
   (ヤフオクに出しましたが入札0 で知人に無理やり進呈しました、多分知人も処分に困ってるでしょう)
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忠臣蔵の大嘘―1
毎年年末になるとテレビに登場する江戸時代の四十七人のテロ物語、
それは忠臣蔵と称して『あだ討ち』といっている真っ赤なウソの不思議な物語・・・
 
そもそも『あだ討ち』とは昔から『理不尽に殺害された遺族が加害者に仕返しする』ことである、
 
誰も殺害されていない赤穂藩の四十七人が『あだ討ち』をすること自体ありえない、
 
元より、吉良の老人が赤穂の浅野の殿様を殺害した訳ではない無いから、
逆に浅野に怪我を負わされた吉良の老人は被害者である、
加害者の家来が被害者の老人を再度襲撃して殺害したのを『あだ討ち』とは言えない。
 
冷静にみるとその異常さに気づくと思う、
 
その前に浅野の若い主君について時代の背景をみてみる、
類似した事件が以前にもあった、
 
それは三重県の鳥羽藩、九鬼水軍の流れを引く九鬼氏が鳥羽城主であった、
その九鬼が内紛で国替えにされた後に常陸真壁から内藤氏が来た、
その内藤家城主の三代目、内藤忠勝が幕府の菩提寺、芝増上寺で行われた法会のさい永井尚長に斬り付けて切腹となった、当然内藤家は断絶となった事件があった、延宝八年(1680)
この忠勝の姉の息子、すなわち甥にあたる若者の浅野某が元禄十四年(1701)に松の廊下で老人に刃傷事件を起こした、
驚いたことに僅か十一年の間に起こった二度の刃傷事件は血縁者が起こしたのだ、
 
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 浅野が切り付けた理由は後世の作文で事実ではない、
1)『賄賂説』・・当時も今も高級官僚には悪いことではなく普通に行われていたので理由には当てはまらない、
なお悪質な賄賂が盛んになるのはもっと後の田沼意次(1719~1788)の頃からである、元禄の頃では賄賂というより挨拶代わりの『御歳暮』『お中元』程度の微細なもので理由にすること自体無茶な話しだ。
2)『赤穂の製塩技術』・・この説も当時の製塩は製法ではなく海水濃度や日照などの地理的条件に左右されていたのでこの説も全く概等しない、
 
1)2)のように、理由とされている二つの話は後世の作り話に過ぎない。
 
ではなぜ浅野の若い男が吉良の老人に刀を抜いて襲いかかったのか、
理由は無い!!法律用語で言う『因果関係』はないのだ、
大した理由なく突然老人に切りつけただけである、ただその蛮行原因は十数年まえの叔父と同じものである、内藤の叔父も浅野の甥も同じ精神的な持病である、
当時は「痞え(つかえ)」といった病(やまい)、
今で言うと「理由もなく自制心が切れる、切れると凶暴な行動をとる」
当時は乱心した・・といわれた、
 
この時乱心した若者に切りつけられた老人は刀を抜かず全く抵抗しなかった、
狂った若者にただただ堪えたのである、よく言う『喧嘩両成敗』も成立しない、
吉良の老人は自分の命の危険に対しても場所をわきまえた沈着な対応に終始した!!
 
後の芝居と全く逆の立派な態度をとっていた不幸な被害者老人である、
 
 
     ここで美女を見て少し目を休めてください
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続き
そして浅野は切腹を命じられた、それは当然です。
もう一つ不幸なのはこのような精神的に病んだ男を城主として仕えていた四百数十人の家来達である、家族を加えれば二千人近い人達が路頭に迷うことになった、この若者の凶行で一瞬にして失業したのだ。
 
世の中は不可思議である・この病気の男が何時の間にか『名君』となってしまった、
( 浅野の若者は此処で事件を起こさなくても、いつか自分の家来を襲ったと思う、
自分の家来なら何人殺しても藩内でうやむやになってもっと不幸な結果だったかも知れない )
幕府の処置は迅速であった、結果論で拙速という馬鹿がいるが・・・
  ここで個人的に思い出したのは社民の弁護士出の福○瑞▽と言うアホの顔でした。
幕府は十数年前にプッツンして刀を振り回して切腹させられた叔父と血筋のつながる若者を同じく切腹の処分をした、
それは封建秩序を守るためには当然であろう、『保護入院』などない時代では生かしておくのは無理である、
後に弟の再興を許さなかったのも同じ異常な血が流れているという理由があった、(7年後綱吉の死による大赦で安房平郡で五百石で旗本寄合いに復帰)
 
これも討ち入りとは関係ない8年後である、
 
反対に若者に切られた被害者の吉良の殿様は善政を敷いた『名君』であった、
国元に帰ったときこの老人は駄馬にまたがって領内を巡視したり・・有名な『黄金堤』という洪水から守る堤の建設をした事も有名である、新田開発も行った、領民が『富好新田』と妻富子の名を付けて尊んだほどである、
このような事実の一例から善政を敷いた領民思いの名君である、
 
反面、加害者浅野家のもう一つの背景も吉良の老人には不幸なことであった、
それは浅野の家老・大石の存在である、
吉良の老人には重なる不幸となるのは赤穂の家老の大石という男が仕組んだ策略があった、この善人の老人を何時の間にか世間では広く深く『悪人』にしていた。
 
これが年末恒例の集団ヒステリー物語の概要である。
現代でも日本では『被害者には冷断で加害者の心身喪失や心身恒弱者には異常に過保護』であるがこのアンバランスさは江戸時代から引き継いだ国家の欠陥です。
( 一例 名張葡萄酒事件・たくさんの殺された被害者と家族の憤怒、三重県警のお粗末処理で犯人と判っていても・・証拠云々と騒ぐ馬鹿弁護士と赤集団!地元の人達は「なぜ処刑して償いをさせるのを妨害するんやっ・・」と怒っています )
文書では残っていないが家老の大石は主君の心身喪失を理由に幕府に不満をぶっつけたのだ、
 
いわく『心の病の若者を切腹させるとは許せない、心か頭の病の者を罪に問うのは許せない・・・せめて弟に御家再興をしてくれ』
お家再興というのは自分たちが失業しなくていい為の方便に過ぎない、
この大石の理論は無いものねだりをする子供以下、反日日本人と同じ言い様である、
現代の羞恥心のない弁護士の口にする言葉そのものであるが・・・
 
しかし、それ以上に大石には次の幕府の処置が自分に向かうことを知っていた、その後の自己保身と家族を守るために離婚までして妻子を里に帰している、旧藩士には妻や娘を身売りさせて討ち入りの費用を捻出している悲惨さと比べるとまさに『人非人』としか言いようがない、自分は京都郊外に妾を作り日々耽美に暮らしていた、またそれは家老時代のままの大石自信の日頃の遊蕩に耽る生活態度の続きである。
 
浅野家留守家老、大石という男については浅野切腹事件の以前から当時の幕府情報網の中に・・
(いわゆる隠密による日本全国の藩内人事の情報は驚愕するほど精緻に諸国調査の記
録されていた、今の社会主義国家以上の情報収集である)
内容は大石の遊郭での豪遊、遊蕩が記録されている、その上講評まである、
『遊郭では池田某と異名を名乗っているが天性の女色狂いと酒宴狂いは常軌をいっしている、遊郭では・浮様・などとあだ名されるほど遊興にふけっている、このような人物に藩主の代理で藩政を執らせている赤穂は長くは安泰で続くことは難しい・・』などと淡々と報告されている、松の廊下での事件より数年前である。
幕府の儒学者・荻生徂徠は唾棄するように大石への評価を『赤穂は必ず不祥事を起こすだろう』と酷評を下していた、
 
驚いたことに浅野切腹後も大石の遊興三昧は続いた、京都山科で妾と住みだしたのも主君の切腹後である、それは吉良家を欺く為と言えない天性の女色狂い、妻を離縁して里に帰したあと女性と夜の営みが無いと過ごせない男!これも一種の病である。
 
ただ当時どこの藩でも家老などの重役には何人もの妻妾がいたのはよく知られている、が、藩がとり潰され旧藩士は浪人となって生活苦の辛酸を味わっていた、その上討ち入りの準備に苦しんでいた四十数人の苦労を知りながら子供のような若い妾に子供まで作っている大石という男の人間性は真面目な人物とはとても思えない。
このように隠密の報告は精細に大石の人間性の弱点に驚く程の詳細な記録を書いていた。
この報告書も現在残っているが・・・・忠臣蔵の大嘘・2 に続きます
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忠臣蔵の凄い戦術

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忠臣蔵の嘘・・3
        浪士の素晴らしい奇襲戦法と戦士
1)・2)・では 大石と言う男の虚構でした、が・彼の率いる浪士については大石とは逆に素晴らしい『戦士集団』です。
大石は ドーン・ドーン・ドドドド・・の太鼓を叩いていた、だけですが、
襲撃した浪士たちの戦術は素晴らしい奇襲作戦です、悲劇の吉良方の惨殺された護衛武士達は悲惨な犠牲者ですが・・。
古くさい「何とか流」では無く現代戦にも共通の緻密な情報収集と現場に対応した武器を調達し改造していました。
僅かな資金で、極く安物の『手槍』を購入して屋敷内で使い良いように自分の身長に合わせて短く切って使用してます、屋敷内では刀を振り回すなど出来ないと知っていたのです。
ひたすら狭く入り組んだ屋敷内では非常に有効な武器です。
  映画などでは刀を振り回していますが(まあ、そのほうが格好よく絵に  なりますが・・)
元禄時代では刀は持っていても日本中の武士は実際には使用したことは皆無です、
これはおそらく唯一の実戦体験者の堀部安兵衛の指導と思います。
彼はまだ中山安兵衛のとき高田馬場で多数を相手に勝ち抜いた実戦体験の
教訓として浪士に教えたのでしょう。
浪士達、すなわち下級武士ならではの素直さ、もし従来の精神論しか持たない上級武士では『途中採用』の安兵衛の教えを率直に聞か無かったと思います。
安兵衛は戦国時代より刀は補助兵器!槍が実戦の主兵器である!と高田馬場で身に染みて実感していたのです。
(一例として・・伊賀上野の仇討で多数の敵を倒した<荒木又右エ門>も最初に槍の名手を奇襲手段で倒しています、実戦では槍が有効なのを知っていたからです。
突然乗馬の下を潜っての奇襲手段は武士道や剣術としては卑怯者と蔑みます、が・勝てば後世では正義と呼びます)
浪士は狭い廊下で実際にまず槍で相手を突き倒し、後に続く浪士が倒れている吉良方の護衛を斬り刻んでいます、
かなり残酷なようですが奇襲戦法では反撃を封じるのが基本なので許されることです。
(平和ボケ時代に生きる私には・・そこまでしなくても・・と思うこともあ りますが、その時代に生きて居ない者の無知による身勝手なのです)
 
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    また、赤穂浪士の奇襲戦法で優れて居ることは他にもあります。
1・真っ暗闇の中、侵入路の照明の為に次々と簡易燭台の蝋燭を立てて味方に目標を間違わないようにしていました。
2・同時に敵の飛び道具である弓置き場に並ぶ弓の弦(つる)を斬る役目も  決めてあり、現に全ての弓は使えなくなっていました。
3・重要な合図のために笛もほぼ全員が持っていました。
4・楔帷子(くさりかたびら・防弾チョッキを想像して下さい)で自身の安全を確保して縦横に突き進んでいます。
5・襲撃時間の設定は人間の熟睡時の反射神経の消失時間を狙っている、目覚めても脳も身体も反応が不完全な時の襲撃は完璧な時間帯です。
(当時は不寝番は<火の用心>の為で今の歩哨・立哨のような敵襲警戒の
 兵では無かった)
 
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これだけ準備をした上での討ち入りは現代戦でも全て通用するものです。
これぞまさに元禄時代の、形式でなく実戦の訓練を重ねる自衛隊のレンジャー部隊の元祖です。
嘘ばかりの忠臣蔵で赤穂浪士達の研ぎ澄ましたような戦術は賞賛されるものです。
私は大石内蔵助は唾棄すべき男と断言しますが、襲撃に参加した堀部親子など全ての浪士達は優秀な武士であり戦士達だと信じています。
     忠臣蔵、実は不忠者の内蔵助ですが、赤穂浪士は元禄の優秀な
      レンジャー部隊でした。
 
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久居33連隊射撃場跡

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 久居33連隊の射撃場跡
    『明神射撃場』 西北の大釜池から『大釜射場』とも言われた
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赤 矢印→の様に射撃をした。
黄緑    の所から撮影。
          緑枠    白山・笠取の航空自衛隊の官舎(宿舎)                となっていたが民間に払い下げられて 
             今はソーラー発電が並んでいる。
西側にある歩兵作業所は高校の家畜飼育場になっている。
    陸軍墓地跡は某信仰宗教の敷地の一部に呑みこまれていて全く消         えている。  ≪新興宗教は日本を滅ぼすゾー!≫
  西北800メートルの傾斜地の道路横に拳銃射撃場があった。
            (この地図では左上方向ですが・・・)
 
写真では 票的は<黄色>で <射線>は赤矢印で入れたが標的の土手の極一部しか面影は無い。
 
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標的の方から射場を観る、やや下方に見えるのは標的近くの掘り下げ壕が埋められたからだと言うことです。
距離感から、陸軍の久居唯一の600㍍射撃場跡らしい所です。
尚、実戦的野戦訓練は御在所岳山麓の『千草』演習場で
徒歩行軍して、数日間泊まり込みで行ったそうです。
 
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以下は<黄緑点>から見た処
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自衛隊官舎跡地はほぼ中間なります、今はソーラー並ぶ、
 
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800メートル西北の拳銃射撃場跡は将校や機関銃兵と阿漕の憲兵分隊
の拳銃射撃訓練場、戦後は昭和50年頃まで警察学校の訓練に使われた
が、  今は道路拡幅で跡形もなくなっている。
 
(拳銃射撃場は何時かアップする予定です)
 
余話・・・
戦後、射撃場用地は雑集地として地元に払下げられたが、射撃場の中央にあるソーラー施設は自衛官官舎の跡なので財務省の払下げ価格が『宅地』となって居て異常に高価で地元では買い受ける人が皆無。
数十年たってバブル崩壊で暴落してようやく岐阜の会社が買い受けてソーラー発電になった・・と射場の近くの爺さんが笑ってました。
 
久しぶりに綺麗な従軍看護婦さんです。
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海軍『白菊』練習機と古いバスと・・

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海軍『白菊』機上作業練習機
この飛行機は僅か400馬力です・・・1000CCバイクでも200馬力あります。
(一式戦や零戦が約1000馬力4式戦や紫電などは2000馬力)
この低馬力発動機で5人乗って機上訓練機材で練習するのです、
 
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健気と言うか、ひたすら、と言うか、とにかく「お疲れさん」以上に頑張った機体です。
この見るだけで不細工で可愛い!小さい発動機と角ばった、フグ(河豚)のような『白菊』を見て思い出したのは大正・昭和初期の『乗合バス』と軽便鉄道の『ガソリンカー』です。
 
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小さな発動機(エンジン)でデカイ車体を強引に働かせていた
“頑張る技術” と既に欧米を抜きつつあった “運転手の技量!”
西洋文明に≪追いつけ追い越せ≫と頑張っていた時代の乗り物の努力の姿の象徴の
 
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『乗合バス』です。 エンジン馬力は30~40馬力・・・
今の250CCバイクでも20馬力あります・・
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そして日本の新幹線のご先祖様と言うべき軽便鉄道の『ガソリンカー』
この車体を動かすガソリンエンジンはフォード38馬力エンジンです。
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車両の前の驚くほど小さいボンネットに入っている38馬力エンジン!!
 
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このシルエットが『白菊』のシルエットにダブって見えます。
己の体力以上に頑張っていた明治・大正・昭和の先輩の方達の凄さの象徴。
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蛇足ですが・・・
 
このように ≪ひたすら頑張る≫ 小さな島国・日本のような時代がなく、
 
ある半島国では・・・・・・・
 
隣の『小さな島国』に近代の文明科学を与えられて居ながら、
  連合国のおかげで、その『小さな島国』に勝った!と勝手に思いこんで・・
   その上、未だにその『小さな島国』に何兆円もお金貰っている、 
その上、まだブツブツと金を出せと言う国家の人民は→→ 
 
≪小さな島国≫の明治・大正・昭和初期の勤勉努力を見習うことです。
 
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海軍三重航空隊・香良洲の予科練

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   三重空・香良洲の飛行予科練習学校
       あまり知られていない話
 
三重空・香良洲・ここは飛行場の無い航空隊です。
操縦士の練習生は居ません、だから単座の零戦・紫電・紫電改・雷電などの搭乗員は居ません、
三重空出身で特攻などで戦死された方は後部席の搭乗員でした。
 
     ≪入校学生・生徒≫  
   大きく分けて・ 
        旧制中学卒の甲種。
        旧制高等小学校(国民学校)卒の乙種・・・
          甲・乙が『若い血潮の~』の歌で知られる少年志願兵。
        一般兵科らの転出の丙種・・(航法・通信では既教育のベ         テランでした、海軍の即戦力の主力)
        大学・高専からの飛行予備学生・・西村晃・阿川弘之・                 安藤昇・・・など沢山みえます。
 
     ≪訓練内容≫  
 大まかに4つに分かれます。
1-上の4種の練習生・学生の飛行科の通信・航法・偵察・射撃・照準の
   教育隊です。
操縦教育以外の搭乗員だけです、陸上攻撃機などの大型機の搭乗整備
 員も居ません。
特徴・・教育がほぼ終了したころに鈴鹿の航空隊に数日間出かけて「白菊」機上作業訓練機で伊勢湾海上を飛んで海上の標的筏への爆撃照準と投下訓練や旋回機関銃射撃訓練をしました、「白菊」の窓を閉めて航法訓練と通信訓練、飛行機に乗る訓練はこれだけです。
2-松阪市岡山町の山中(小さな盆地)に陸戦訓練場があり小銃射撃や野戦訓練を数日間、宿泊して訓練をしました。
3-有名な「三重空式」と呼ばれるモールス符号の暗記方法は戦後も『三重空出身ですね』と広く知られていました。
速成大量教育で従来のモールス符号の教育では時間が掛かるため
イは ・-(ト・ツ―) ロは ・-・・・(ト・ツ―・ト・ト・ト)
ハは ―・・・(ト・ツ―・ツ―・ツ―) ニは ―・-・(ツ―・ト・  ツ―・ト)
と暗記するのを言語暗証で速成効果を上げた、≪ただし送信受信には従来より数秒遅れたそうです≫ 数例上げると、
イは(イト―、伊藤) ロは(ロジョウホコウ、路上歩行) 
ハは(ハーモニカ) ニは(ニュウヒゾーカ、入費増加)等と暗記させる三重空の発明です。
4-卒業生では西村晃(水戸黄門のあの人です)が有名です、卒業してから中尉の時、特攻隊員として鹿屋で待機中に終戦、待機命令を無視して部下の操縦する「白菊」に妻を乗せてさっさと横須賀に帰った・・これは有名な話で、多くの人の戦記に『予備学生出の中尉に凄い猛者が居た』と終戦時の伝説になって居ます。
・・・三重空のエピソード・・
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西村晃さんは「白菊」で特攻!と決まった時、
『馬鹿のような海軍上層部だ、鈍足の白菊で自殺できるか』
と学生結婚していた妻を基地近くに呼び寄せて
『出撃したら鬼界が島に着陸するからそこにおいで』
とエンジン不調と言って不時着を計画していた、
爆弾を積んで時速200k/h以下の「白菊特攻隊」のバカバカしい自殺飛行を基地でも「馬鹿かぁ」と笑って否定していた人です。
もし・・西村中尉が「彗星」「銀河」「彩雲」で出撃命令を受けてたらテレビの水戸黄門の西村晃さんは存在しなかった・・・と思えば海軍上層部の馬鹿のおかげかな?
(鬼界ガ島は今は喜界ガ島になってます)
もう一人・戦後ヤクザで東映の俳優になった安藤組の組長、安藤昇も香良洲の三重空出身・海軍中尉です。
 
    ・・・・・平成26年・・・・・
今年は5月18日に第47回目の慰霊祭がありました。
そこで『三重海軍航空隊隊歌』なども歌われましたが戦後69年を経過して三重空の生存者・旧若櫻顕彰会勇士の方は数名のみでした。
生存者以外全て、地元香良洲神社関係者・三重県隊友会・三重県水交会・の会員だけとなって居ます。
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慰霊祭で歌われた 『三重空隊歌』
 
蛇足・三重空も終戦近くには奈良に三重空・奈良分校が出来ました。
他にも西宮・滋賀・高野山に分遣隊が造られたが教育実績があったか?
実施?されたか不明。
奈良分校は今 『航空自衛隊幹部候補生学校』 と 陸・海・空の『操縦英語課程学校』・(正式な名称は不明です)になって居ます。
 
終戦前後の国内状況下で、こんな美女の奥さんを載せて「白菊」でふんわりと横須賀に帰った黄門様は、ある意味で勇者だと思います。
(注)西村晃さんは決して反戦主義者などの赤ではありません、
   国を愛した冷静な愛国者でした、念のため!!
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今日は10月25日です

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     今日は・・昭和19年10月25日・・
 
レイテ島から≪最初の神風特攻隊の出撃の日≫と言われていますが実際は・・
 
神風特別攻撃隊の初出撃は同年1021日で4日前です。
大和隊・敷島隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃、ただ当時の悪天候などでほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長・久納好孚中尉 が未帰還となった。
23日には大和隊・佐藤馨上飛曹 が未帰還。
そして・・ようやく25日午前1049分、敷島隊指揮官の関行男大尉以下6機 が空母「セント・ロー」を撃沈し、初戦果を挙げた。
 
  なぜか、関大尉が神風特攻隊の最初となっている・・理由は沢山あります、
関大尉は海軍兵学校卒に対して久納大尉は法政大卒の予備・スペア云々・・
関大尉は実際の戦果を挙げた云々・・
敷島隊のみ出撃の壮行儀式が行われてニュース映画を撮った・・
 
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そんなことはどうでも良い事です、優秀な熟練の下士官飛行兵20名以上が虚しく死んでいった方が重大な事です。
何年も命を懸けて、空戦を生き抜いた若者に突然『死ぬだけの体当たり』を命じる馬鹿達! これは作戦ではありません、錯乱です。
死ぬべき時は死ぬ覚悟で戦闘している健気な若者に『死ね』と言う愚かな人間、
命じた司令部の連中は戦後ものびのびと生きて居ました。
 
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・・・それから10か月・・・
昭和20815日玉音放送の後、
戦場の将兵はかろうじて生き残ったのです。
そのようやく生き残った感慨に耽る間もなく・・究極のアホがいました!!
名前は、宇垣纏と言う中将「最後の特攻」として云々・・・
艦上爆撃機「彗星」11機が・・・自発的に特攻に参加したと言われてきたが実際は・・
 
8月15日、天皇陛下の玉音放送で大日本帝国の降伏を知った宇垣中将は、
≪最後の特攻出撃をかけ、自決しよう≫ とした。
出撃を取り止めようとした部下に
「いまだ停戦命令に接せず。多数の純忠の将士のあとを追い、特攻の精神に生きんとするにおいて、考慮の余地はない」
と、思うのなら自分で切腹なり拳銃で死ねばいいのだが・・ここが困った男である。
中津留達雄大尉操縦の「彗星」の後席に偵察員の遠藤秋章飛曹長とともに同乗、
二人乗りの飛行機に無理やり三人が・・遠藤飛曹長は死を命ぜられた上に窮屈な思いだったでしょう。
そして大尉の部下1122名を道ずれにして出撃する有馬。
 
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中津留達雄大尉以下22名の搭乗員の11機の艦上爆撃機「彗星」は大分飛行場を出撃した、
終戦で死を逃れたはずの22名!切腹も出来ない『馬鹿』の命令で、折角終戦まで生きながらえた優秀な若者が死ぬことになった!
 
出撃を見送る予科練の先輩同期後輩達は泣きながら
『有間の馬鹿野郎!○○を道ずれに殺すな!自分一人で腹を切れ――』
と飛び立つ友人の名前を叫んだ(死闘の水偵隊・予科練一代・激闘艦爆隊・等より)
 
 
偶然にも関行男大尉と中津留達雄大尉は、戦死したのは同じ23歳で兵学校70期の同期生、関大尉も元は艦爆操縦です。
 
もし帝国海軍が存在していれば、有馬は部下でもない彗星部隊に専権的に特攻出撃を命じたことになり,軍法会議の処罰対象者である
 
体当り特攻作戦とは狂気の作戦ですが≪隊員は命を捨てて敵艦に向かった勇者≫であることは間違いありません。
そういう立派な若い人達のおかげで今の自分達が生きてられるのを忘れてはいけません。
 
感謝の心の無い社民・民主・共産は住みやすい此の世の天国の隣国へ出ていって下さい。
 
特攻隊以前にもその時の情況で無心となって身を捨てて征った方達が沢山見えます。
 
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昭和19414日、アンダマン諸島へ向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の飛行第26戦隊の一式戦闘機「隼」石川清雄曹長は米海軍の潜水艦が発射した魚雷3本を発見。
機銃掃射しつつ魚雷目掛け海面に突入し戦死!
・・・・・命と引き換えに魚雷の爆破に成功、輸送船を守った。
 
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このような体当たりは、神風特攻隊とは違いますが、
乗っていた人は同じように国の為に一番大切な命を捨てられた立派な方達です。
            感謝を忘れないでください.
 
 
 
 
 感謝を忘れると社民・民主・共産・のような人間になってしまいますよ。
 
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悪い人間共をバッサバッサと・・・
 
 
 

捏造朝日の記者

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捏造朝日の記者・・これぞクソから生まれたクソ太郎・・
 
北海道に≪北星学園大学≫ と言う学校があるそうです。
キリスト教精神に基づいた人格教育だそうです。
ここで留学生向けの講師に『植村隆』と言う男が居るようです・・・
この男・例の 従軍慰安婦 の捏造 記事を書いた男です。
捏造→平たく言えば≪嘘≫ですね、
 
 
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この嘘つき男、朝日新聞で国内外に吐毒を撒き散らした凶悪な記事の張本人です。
別名では≪売国奴≫とも呼ばれてますが、国民を恥辱したことは大罪です。
国辱を世界に流布して、支那・南北朝鮮を付け上がらせた、だけです。
 
支那や南北朝鮮国民から金銭は受け取って無いから!
売国奴的な収入は無いから売国奴では無い、
と言うアホ評論家が居ますが・・・
 
それが「法政の教授」や「札幌市長」等の言う、報道・言論・教育・の自治を守る言い訳らしい・・
 
と言う事は  札幌市では捏造報道も自由にどうぞ・・!
法政では嘘のマスコミ報道も自由な学問として容認・・!
北西学園大のキリストの基本精神では嘘もOK‼ 、それを教育      理念として外国留学生に講義も自治・・・!
 
もっとも大学を脅迫した男は犯罪者ですが、それはそれで別の事件、
 
いわば肝心の火元である、従軍慰安婦の証言を報道した植村隆(56)を講師にしている
北西学園大学の自治 という権利をグタグタ言っている 
法政大の教授や札幌市長達の不思議な集団は
 
「大学の自治を侵害する卑劣な行為で、毅然(きぜん)として対処する」
との文書を出したけれど、それより世界中で恥辱で傷つけられた
  日本国民の尊厳はどうでもいいのですか?
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 曽祖父・祖父・父・兄達の人権や名誉を毀損した償いより
        言論と学校の自治が大事なのか!!
 
   そんなクソ朝日も・・
戦前の国を愛していた、こんな普通の新聞社時代を甦らして欲しい・・。
 
世界の友好に向けた≪親善飛行機≫2機、
 
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朝日の『神風号』  翼のマークは旭日では無く朝日新聞のマークです。               (陸軍キ1597式司令部偵察機の改造機)
 
 
 
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長距離研究機 『A26』 Aは朝日の頭文字、26は皇紀2600年の26
  (陸軍キ77長距離偵察機の改造・製造費用を朝日新聞が負担して
                            開発した)
 
この時代を思い出して・良い新聞・に戻って下さい。
 
   見たくもない植村某の顔の口直しの美女です
 
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正義とは、義人村上粂太郎の行動

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  前回は『醜い日本人』の顔を出して申し訳ありません、反省。
 
その醜悪な男の後味悪さを消すために・・・
素晴らしい方の話です、一部過去に載せましたが、お許し下さい。
   ≪2013年12月10日 ・marugaripepuブログ・ヤフーブログ≫
 
   義人・村上粂太郎
ハルピン民生部事務官・村上粂太郎の遭難から救出までの自己犠牲の行動が日本のみか世界中を感動させた、 その犠牲的な行動により捜索中の海軍陸戦隊のボートに発見されて奇跡的な救出がはじまった、その瞬間の絵です。
             ≪この日本画は我が家の家宝です≫
 
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昭和9年8月30日の事である、状況は以下の歌に拠ると簡潔に解ります、
 
  義人 村上粂太郎の元歌
 
1  暁寒き北満の 鉄路も暗き急行車
  銃火を浴びせ襲い来る さてもこしゃくな匪賊共
  応戦するに武器は無く 女子供に怪我さすな
  覚悟を決めた人質に ままよ何処でも引いてゆけ
 
2  荒れ野の沼地踏み分けて 土に伏すとも同胞の
  命の為だ必ずや 救援隊はきっと来る
    柳を分けて覗えば 陸戦隊の漕ぐボート
  すわこそ監視の匪賊共 銃をそろえるその刹那
 
3  躍り出でたる生け贄の 男児 村上粂太郎
  歓呼のごとく大声に 日本人はここに居る
    叫ぶや否や匪賊共 慌てふためき撃ち出だす
  弾にひるまず堂々と 日本人は此処にあり
 
 
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ハルピン発新京行き国際夜行列車を襲撃した支那人匪賊により日本人と米国人が人質となる事件が起きた、人質は匪賊のジャンクに乗せられて松花江中洲を移動していた、その匪賊のジャンクに縛られていた村上粂太郎は捜索中の海軍のボートを見つけた、口中に銃口を突きつけられていたがそれを払いのけて『日本人ハ此処ニ在リ』と叫んで知らせた
ボートの日本海軍陸戦隊が発見し陸戦隊のボートは全部隊に知らせつつ人質の救出に向かった
、これを見て水に飛び込んで逃げる匪賊を次々に射殺、逮捕56名、人質の9名(一説では10名)全員を無事に救出したが、村上粂太郎は上顎貫通銃創と左腕被弾の重傷であった、
この奇跡的な救出は当時の海軍陸戦隊の精鋭な練度と共に単なる事務官である村上粂太郎の犠牲的な武勇であった。
    もう一つの 『 義人村上 』
  -日本人は此処に在り-   (昭和9年)流行歌
1.
   何処へ曳かるる人質ぞ
   首や双手は縄からげ
   二日二夕夜も休みなく
   明けりゃジャンクの船の底
2.
   救援隊の呼ぶ声に
   慌てふためく匪賊共
   口に銃口つきつけて
   撃つぞ叫ぶな声立つな
3.
   それ 皇軍の短艇が行く
   呼べば撃たれん叫ばずは
   天に口無し すはや今
   歯を噛みならす一刹那
4.
   丈夫 村上久米太郎
   匪賊蹴破り躍りいで
   満腔義烈の声こめて
   「日本人はここにゐる!」
5.
   叫ぶやいなや弾丸は
   顎を貫き犠牲に
   君を倒せどその声に
   内外人は救はれぬ
6.
   君傷つきぬされど今
   義烈輝く日本の
   精神ならで誰が呼ぶ
   この一ト声を誰が呼ぶ
 
これが昭和9年に『義人村上粂太郎』と歌われ、この『絵』になった事件の概要である。
海外の反響の一例・・
  大阪毎日新聞 1934.11.6-1934.11.8(昭和9)
 米国記者の見た日本と満洲国
    クリスチャン・サイエンス・モニター紙編輯長
 
忘れ得ぬ義人村上氏の印象
満洲で私が最も感動をうけた経験はその勇敢な犠牲的行動によって匪賊の手から七名の日本人と二名の米国人を救ったかの村上粂太郎氏に面会することができたことであった、二、三の同行者と共に私は村上氏がいよいよ退院して新京の家族の元へ帰った日、氏に面会することができた、氏の謙譲な口からあの残虐な事件の説明を聞いたのだが、控え目な言葉にも拘らず話は極めて壮烈なもので、われわれはこの一人の英雄の前に座していることを意識していながら何だかそういう英雄的行為とは別な日本人の偉大さを物語られているような気がしてならなかった、氏は満洲国皇帝から名誉ある勲章を授けられた、身体の不自由なのにも拘らず迎えてくれた氏をわれわれは永久に忘れることはないであろう。
 
    戦後の一部の醜悪な集団に属する新聞社と社員には無い自己犠牲の    崇高な事件でした。
  あの記者も同じ日本人!  でもこれだけ違います。
   尚・この村上粂太郎と言う方は 愛媛県今治市吉海町津島出身 の方です、
         愛媛県の教員組合員(淫?)の人々は分からないでしょうね!
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福島中佐のシベリア単騎横断

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福島安正 中佐・出発時は少佐
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以前にも一度『福島少佐の単騎シベリア横断』をアップしましたが、
今度は福島少佐の『脚』として欧州から亜細亜まで行を共にした10頭の馬の話です。
 
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明治2411月にベルリンで『凱旋号♀』英国産の半血種・9歳牝を購入、
翌、25211日の紀元節にベルリンを出発した…
 
非常に良馬であるが体高が162メートルもあり元々騎兵でもなく小柄な福島少佐には乗馬の時には台が必要になった、単独での荒野の踏破に苦労した様子が手記に度々書かれている。
 
   それでもこの馬を乗馬に選んだのは、
少佐の体重にプラス重い防寒外套や冬軍服は80㎏
鞍・毛布・その他携行品は40キログラム
(鞍の下に毛布・後部に普通外套・4個の革袋に襦袢・袴下・靴下・各1着・手袋2・手ぬぐい2・洗面具・医薬品・地図・製図用具・日時計・晴雨計・軍刀・拳銃。
なお水筒は携帯せず・・)
合計120㎏・・(輺重駄馬でも100㎏が限界である)
この重量に耐える大型の乗馬の名前を『凱旋号』と名付けた。
約3か月を過ぎた頃から跛行(ひこう・ビッコ)を引くようになり蹄鉄からも血が滲んでいた、
5月11日、バクレフ市に着いた時、とうとう立ちすくんで歩けなくなった。
「急性腱炎」と診断された、
凱旋号は厳寒の荒野の歩行では雪と凍った泥濘と瓦礫道でとうとう足を痛めてしまったのだ、
蹄の裏・蹄叉が凍った水で爛れて裂けて出血した、蹄葉炎になっていた。
 
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少佐の悲痛な日誌
『愛馬一朝ニシテ病ミテ起タズ  断腸、涙ヲ揮フ別離ノ辰(明日)』
 
現地の村長宅に預けて寝ていた『凱旋号』の鼻を撫でたり首を摩って別れを惜しんだ少佐ははた目もはばからず、ポロポロと涙を流して一日中青草を食べさせたり背中に群集する蚊を払って一日中看病した、いよいよ出発の日にタテガミを少し切って紙に包んで・・戦場の愛馬の別れのように・・
今後の治療費を多額に託して、馬丁にも金銭を渡して・・・
この愛馬との別れには日記の数ページに渡って
 
『 憐レム可シ今ヤ凱旋号ハ病ミ疲レテ不幸ヲ慰ムルモノナキ時、
長ク仕ヘ親シミ睦ミシ余ノ慰ムルヲ見テ嬉シサニ耐エズ,
首垂レテ余ノ動ク毎ニ耳ノミヲ動カシ、
哀シゲニ嘶キ唇ヲ震ハシ何事カヲ訴ヘントスルモノノ如シ、
之ヲ見テ余益々胸セマリテ涙自ト双眼ニ溢ル。
思ヘバ・・・中略・・・
又逢フノ期ナキ愛馬ノ行末ヲ想ウテハ万感胸ニ溢レテ離別ノ悲、
愈々切ナリ 』
勇壮な単騎横断物語の中にあった人馬の別れる バクレフ市 の数日は悲しい記徐で福島少佐のもう一つの人間性に深く感動しました。
 
少佐はこの後25年5月11日に乗馬『ウラル号♂』を購入したが鞍傷と凶暴の為、廃馬にした。
(多分≪金抜き≫をして無かったと想像します)
 
25年8月19日、臨時代用馬に『スタリック号♂』、9月20日以降は駄馬として使用、
外蒙古で腹痛で死亡。
 
25年8月19日に駄馬も購入して乗馬への加重な負担を考慮している。
 
25年9月8日に駄馬を購入、(8月購入の駄馬と交換)この駄馬は外蒙古で死亡。
 
25年9月20日『アルタイ号♂』5歳駒月毛、『興安号♂』6歳駒栗毛の2頭を購入。
この『興安』は最後まで266日同行して健在・・・ただ『アルタイ』は26年1月17日跛行の為乗馬できずに放して自由にすると付き歩いて来る。
25年10月15日駄馬を購入。同行馬が多すぎたので12月19日にコザック中隊長に前の駄馬を贈った。
25年10月19日駄馬を『スタリック』の代わりに購入。
26年1月17日『ウスリー号♂』10歳駒蘆毛を『アルタイ』の代用としてチタの騎兵隊より購入、以後147日完走して健在。
 
3騎が最後まで歩き内地に連れ帰る。
こうして少佐の脚となって呉れた馬は10頭、
途中で力尽きて死んだ馬が3頭、途中で廃馬(現地の人に譲った)が4頭、3頭が日本まで同行した。
 
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行程3500里(13,745k488日の単騎遠征は終わった。
正確に言えば 単身で10頭の騎馬を乗り継いでの遠征であった。
 
3頭は天皇陛下の主馬寮で飼育されていたが乞われて上の動物園で記念馬として最後まで幸福な老後を全うした。
 
前後しますが、2579日 ウラル山頂の『欧亜境界碑』に到着。
ヨーロッパとアジアの境界線に着いて居ます。
 
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この石碑が今もあるのかどうか分かりませんせが・・・多分支那人(中国共産党)が居ない地域なので残って居るとおもいますが・・・
 
福島少佐は2631日付けで中佐に進級していたが本人は後で知った。
この後の福島中佐は支那の義和団と称するテロ集団の事件,いわゆる『北清事変』で北京城に籠城していた欧米諸国の外交官や武官の救出作戦の指揮官として世界中に名声を博した。
 
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義和団鎮圧の為、明治33年(1900年)年6月、臨時派遣隊司令官として同年9月から翌年6月まで、
同時に北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、英、独、仏、露、北京官語を駆使して調停役として活躍。
 
明治372月、『日露戦』では大本営参謀に就任し、同年6月から日露戦争では満州軍総司令部参謀、この時も同時進行で・・
満州馬賊を率いて戦った「遼西特別任務班」、「満州義軍」の総指揮を行ったことは、一般にあまり知られていない。
明治409月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。

駆逐艦『春雨』の遭難

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 今年の11月24日・103回目の供養祭があります        
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      国産第一号の軍艦春雨型『春雨』
 
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            写真は同型2番艦『村雨』 
明治36626日、横須賀造船廠で竣工。
同型艦
  春雨(はるさめ)
村雨(むらさめ)・・上の写真
 速鳥(はやとり)
 朝霧(あさぎり)
 吹雪(ふぶき)
   霰(あられ)
  有明(ありあけ)
 
性能概要
排水量常備:375トン
全長 69.2m
全幅 6.6m
吃水 
機関(石炭ボイラー)2軸推進、6,000shp
最大速力 29ノット
航続距離 
乗員  60~70
兵装 8.0cm単装砲2
57mm単装砲4
48cm魚雷水上発射管2門 (魚雷搭載数      本)
 
 
    ≪ 駆逐艦春雨の戦歴と航海記録 ≫
 
駆逐艦春雨(満載排水量381t)は、明治37年日露戦争に従軍、
艦長 有馬律三郎少佐:
9月より 艦長 関重孝少佐
日露戦争開戦の際には、旗艦として、僚艦「吹雪」「有明」「霞」「暁」とともに、第一駆逐艦隊を編成。
 旅順港閉塞戦や日本海海戦では、得意の夜戦攻撃により数々の武勲をたてた。
旅順沖でロシアの駆逐艦と交戦後に、触雷し、船尾部分を喪失。
修理後、日本海海戦に参加。
 
日露戦後
佐世保水雷団第十二駆逐隊の旗艦・艦隊司令官・大滝道助中佐、艦長・児玉兼三郎大尉の「春雨」は、3艦の僚艦「磯波」「綾波」「浦波」を伴い横須賀に向かっていた。
土佐沖の海軍演習に参加しての帰りに、いったん横須賀に集結してから佐世保に向かう途中だった。
明治441123日の夕方、志摩沖にさしかかったとき、大時化に遭遇した。
十二駆逐隊司令官・大滝中佐は、編隊を解いて各艦に自由行動を命じた。
同時に春雨は、的矢湾への避難を決定。
夜に入ると風雨は一層強まり、海は大荒れの状況となった。
 菅崎の八正道沖にさしかかったのは、真夜中近く。的矢湾口を突破したと思われたが・・そのとき、菅崎海岸の暗礁に乗り上げてしまった。
64名の乗務員は岩礁が艦底を引き裂く激しい音で、座礁を知った。
11月24日午前0時歴戦の『春雨』は菅崎付近に座礁したのだ。
 
司令 大瀧道助中佐、艦長 児玉兼三郎大尉を含め乗組員64名中44名が亡くなる、大惨事になった。
僚艦は沖合いで嵐の暴風雨をしのいだ、翌朝、岸近くには春雨の煙突4本のみと記録は伝えている。
こうして国産第1号駆逐艦は沈没した。
 
≪ 艦籍記録 ≫
明治441124日、三重県的矢湾で荒天により擱座沈没。
同年1228日、除籍。
大正元年81日、沈没のまま売却。
明治44年121日 艦長・児玉兼三郎大尉殉職と記録
 
遭難時の情況や地元の人達の決死的救出はドラマチックでした。
        地元の相差・的矢の人々は勇敢そのもの!
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≪ その後の顛末 ≫  地元相差の記録より参照一部転載
明治44年11月24日に座礁し、沈没した「駆逐艦春雨」は死者44人という大惨事で、その救助活動には地元の青年団や漁師、海女たちが多数参加したといわれている。その殉難者の慰霊とともに、相差の人々の勇気ある行動を後世にも伝えるべく、毎年供養祭が行われている。
 
≪ 昭和から現在 ≫
毎年1124日の、当日は自衛隊関係者他、相差町内会関係者が集まり、供養祭がしめやかに行われる。
この日は相差町民による。
「春雨艦遭難和讃」と呼ばれるご詠歌が歌われる。これは、日赤病院に療養していた、小倉兵曹長、米沢一等機関兵ら20名の生存者達が友の死を悼み、悲しみ溢れる心情を綴った詞である。
 
昭和12年、殉職した乗組員の霊を供養するため、『志摩郡在郷軍人聨合会』によって、春雨艦殉難の碑が記念碑が建てられ、眺望のよい記念碑公園・『菅崎公園』 として整備されている。
 
私も供養祭に参加します、其の折に『春雨遭難和讃』を教えてもらいます。
その時の供養祭の写真も撮るよていです、上手く取れたらアップ致します。
 
   若い男の人と共に、若い海女さんも救助活動してくれたと言う事です。
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この隣村に畦蛸(あだこ)と言う村があります、そこの海女さん出身の
オバサンが居ました、今年の春に亡くなられましたが物凄く良い人でした
『的矢・相差・畦蛸は人情がめちゃめちゃ良い所や』といつも言ってました。
駆逐艦「春雨」の殉難者44名も人情篤い地で眠っておられます。
 
 
 

駆逐艦『春雨』慰霊祭

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11月24日・慰霊祭に行来ました。
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  前ブログに書きましたが生存の小倉兵曹長や米沢一等機関兵らが綴った詩が和讃となって慰霊祭で
  詠われました。
           毎年の恒例だそうです。
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それと、ここの人達の決死的な救出は文字とおりの決死隊でした。
当時は救助艇などない時代です、手漕ぎの『8丁櫓』で嵐の岩ばかりの海に乗り出して
救出も「ライフィジャケット」などもない時代で、そのままで海に飛び込んで救出したのは・・・
犠牲的精神以上の、現代なら無謀な自分も死ぬ可能性が非常に高い行為です。
 
御嶽山の救出隊員やヘリコプター等も命掛けの危険な、はらはらする救助行動でしたが、
明治44年の相差の救助決死隊ほそれ以上に危険で勇気のある行動でした。
 
去年、自衛隊の飛行艇で救助された元アナウンサーが
『この国に生まれて良かった』 と感激で感謝する声が印象に残って居ますが、
相差の『春雨』救助決死隊の記録を読むと・改めて・『日本に生まれて良かった』!!
 
『春雨』が二つに折れて挫傷した岩礁に石碑があります、手前は断崖絶壁です。
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殉職した44名のお名前
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≪ 明治44年・相差青年隊 ≫
私は救出の決死隊員のお名前も石碑に残して欲しいと思いました。
また、女の人(18歳の少女)も荒れ狂う油の浮く海に泳ぎでて救助に
向かいました・・・・海育ちと言っても、物凄い勇気のある人達です。
 
現在・女性の地位云々する馬鹿社民の福島×××は此の少女の
 <爪の垢> をダンプ一杯飲んでも出来ない決死的救出行動です。
 
 
 
綺麗なお姉さんは私の『心の救出隊』です。
相差・的矢・畦蛸には,、ごく普通に居る綺麗な海女さんでした。
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「はやぶさ・隼」の新旧

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 『隼』 大正・昭和・平成の名機3代
 
現代では『隼・はやぶさ』と言えば・・
 
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はやぶさ・第20号科学衛星MUSES-Cは、MUSESシリーズ3番目の工学実験機です。
・・オッサン年齢の私には詳しく判りません、<付け焼刃>の知識ですが・・・
 
今まで知って居たのはこの程度です。
日本のロケットの父とも言うべき糸川英夫博士の長年の成果だと言う事のみです。
( 糸川博士は宇宙航空研究所の所長の時に、朝日新聞の執拗な攻撃に遭い、ロケット開発から手を引かざるを得なくなった。
クソ朝日と言う新聞が <東大、宇宙研はロケット開発から手をひけ> というキャンペーンを張ったからである。
朝日の当時の科学部長木村某の糸川博士に対する嫉妬と恨みだという )
 
最近では民主党の蓮舫議員は、「はやぶさ」 に関して、税金の無駄遣いだと喚いて攻撃した。
「はやぶさ」のイオンエンジンにも文句を言ったが・・民主の国会議員が、イオンエンジンとか、宇宙技術の知識など持ってもいないでしょう。 
(私も知識は持ってませんが、知識もなく批判するなど論外です)
朝日のような、アホ国会議員に入れ知恵する者が居たのでしょう。
このような連中の嫉妬と妬みを切り抜けて・・・・
色んな妨害があったが・・宇宙でも同じように障害を切り抜けて、見事に『はやぶさ』は任務を果たして火の玉となって成功したのです。
今は『はやぶさ2』が期待されています・・・
 
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朝日新聞はトピックスで応援してるようですが・・糸川博士を攻撃していた朝日が!!
厚顔無礼者とは朝日の事です。
 
 
昭和で『隼』と言えば・・・
 
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中島飛行機で設計主務者として小山悌課長以下設計課が開発に取り組み、研究課空力班から糸川英夫技師が設計に協力した。
そして大東亜戦争の名機 ≪1式戦闘機・キ43・隼≫ が出来て大活躍しました。
この時も一度は「アカン」と言われたのですが、64戦隊の加藤部隊長などの努力で大活躍しました。
この『隼』も1型から2型、3型と発展して行きました、科学衛星『はやぶさ』も2・3と進化してほしいものです。
 
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    大正時代の『隼』と言えば・・・
鳥飼式『隼号』改造機がありました。
大正4年5月14日に飛行しました、試験飛行が千葉県稲毛飛行場で成功しています。
 
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地上を離れて滞空してから無事に着陸すれば成功!と言われた時代です。
実用(軍用)にはまだまだ幼稚な航空機の時代で・・・歴史から消えてしまっています。
航空機史に僅かに残って居るだけです。
 
これが『隼・はやぶさ』の大正・昭和・平成の3代記です。
 
これも3代記??
 
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「はやぶさ」でした~。

90式鉄帽

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帝国陸軍の『90式鉄帽』
 
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初期の鉄製の星章が付いた貴重品!内側には当時の白ペイントで≪大≫の字が入って居ます。
今日、偶然にも入手することが出来ました。
 
   ・・・ホウスケ君のママありがとう!・・・
    伊勢別街道のリサイクルショップ「いせや」さんに有りまし       た!!・・・「いせや」さんには掘り出し物ありそうですよ!
 
        鉄帽の内貼りの豚革も完全です、初期のものです。
       ( 後期にはズックでヘチマのクッションが付いてます)
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形状の比較を見ると・・
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海軍の艦艇用(再塗装)    90式     防空鉄兜
防空用は陸軍の正式兵器では無いので鉄帽でなく鉄兜と言います。
(今の映画やドラマでは全て防空用が使われています)
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90式        防空鉄兜
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     全く偶然にも、ちょうど1年前。
  去年11月30日のブログにアップした記事の再掲です。
 
 
昭和3~4年ころ普通の鉄兜と並行して写真のような『折りたたみ』鉄兜が試作されていた
 
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折り畳むとサンバイザーのような形、広げると動物の『アルマジロ』のようです
 
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九片のうち前五片が鋼鉄、後ろ四片がジュラルミン
 
 
射撃試験で全面は同時試作の九〇式鉄兜と同等だが側面は難なく貫通して
防弾効果なし、残念!
 
ただし、現在なら樹脂で作って防災用に非常にいいと思うが・・・
   (と・・思って居たら製作・発売した会社がありました)
 
 
同時に試作された鉄兜が九〇式鉄兜として後の九八式とともに終戦まで使われた
 
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   ( 一部は戦後も長く警察用として使われていた・
     浅間山荘事件の時はこの九〇式と防空鉄兜と米式の三種類が
     同時に見れた、気づいた人は極わずかと思うけど )
 
 
 
ちなみに、昭和七年四月二八日付けで『鉄帽』と名称が改正された。以後『鉄兜』ではなく『鉄帽』」となった。
 
昭和五年からの二年間だけ『鉄兜』、
あとは『鉄帽』となった九〇式鉄帽・
・関東以北の兵隊さんは『テッパチ』と呼んでいたそうです。
 
 
九〇式は大・小の2サイズあった、が・被って余裕がある大の方が「避弾効果」が高いと言われて小を希望する兵がほとんど居なかったと言うことである。
今、九〇式は稀少価値がありオークションで非常に高価取引される。
私も欲しいが高価すぎて奥方に買ってもらえない。
 
 
九〇式と九八式は材質と形状に微妙な改良があるが一見では判別できない、重量は同じく1キログラム。
 
 
 
そして今の自衛隊になると米軍式に似た六六式となる、鋼鉄製外帽と樹脂製内帽で重量は1,4キログラム・サイズは一サイズのみ
 
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自衛隊員は鋼鉄の外帽を『テッパチ』樹脂製の内帽を『嘘っぱち』と呼んでいる。
 
 今は八八式が採用されている、材質はFRP樹脂だが鋼鉄以上の避弾効果がある、
 
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重量は1、3キログラム前後・・サイズが特大・大・中・小・と四種類ある、女性自衛官への配慮と噂されていた。
 
内帽は無い・・が六六式内帽を被っても装着できる。
災害出動では六六式の樹脂製内帽を使っているが、御嶽山の救助出動では
八八式を使っていた。
 
今昔『テッパチ』のお話でした・・・・
多分誤解されていると思うことを訂正すると『テッパチ・鉄帽』の効果は完璧ではありません。
避弾効果は53%・・あとの47%は貫通します、頭にかぶって動きまわるのに耐える重量ではこれが限界です、それに銃器の弾丸も進化し続けています、
 
 
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ワンちゃんは鉄帽ありません、鉄帽被って居ても・・・
    人間すべて『運』次第で弾が反れるか、頭に当たるだけです。
 
   今日はホウスケちゃんママのおかげで九〇式が入手出来たので
     一年前のブログも再アップしました。

愛車と自動車税

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軽自動車の税金が上がります
 
 
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軽4と2輪の税金が無茶苦茶上がる、この悪法への正義の反論の・・屁理屈です。
 
17年乗っている愛車を勝手に≪燃費悪いから≫と重罪扱いの「重加算税」?などで
7000円から12900円にアップとは・悪夢や。
 
10年乗っている250CCのオートバイが4000円から6000円に・地獄や。
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無形の世界遺産以上に価値のある、日本人の美学『質素倹約』と『勿体ない』を忠実に実行して乗り続けた愛車『ジムニ―』を重加算税の刑に処するとは・怒。
 
確かに燃費はメッチャ悪い。
リッター8キロ前後の悪さ、今の普通車の3分の1.
それでも頑張って乗り続けていた・・
私が言っておきたいのは『ジムニー』に乗り続けるのは国家と県・市町村への莫大(でもないかな?)な税金の貢献をしいていたのですぞ!
 
まず
    ・燃費が3分の1と言う事は・・同じ距離を走る普通車、特に低燃費車の3倍~4倍のガソリン税を余分に国庫に払ってやっているのです、御国に普通の人の3倍以上も尽くしているのです!
 
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これは本物の国の功労者マーク
 
    ・市町村には新品の軽四の2倍近く納税して・・地域の医療福祉や教育や道路整備に普通の人の倍近くも納税して貢献するのです!
 
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これも本当の国の功労者マーク
 
    ・17年間、新車購入時の諸手続きに公務員様の御手を煩わせる事もなく古い車に乗り続けて・・
幾ら高給を貰っても『休まず、遅れず、働かず』の崇高な勤務態度を維持していただく為にも、一市民として、面倒な手続きを省いているのです!
(もっとも最近では『休まず・・』は、ありません、産休・育児休で越年休暇を完璧に消化されています・・忠実な市民の下僕さまのおかげです )
 
と言う訳で、古い『ジムニー』に乗り続ける私が ≪市政功労者≫ と名乗っても文句ないのでは?
来年から車体に『市政功労車両・加重納税車両』とステッカーを貼ろうと思います。
この私の言い分は全く正当では・と、税金アップに屁理屈言うしかありません。
 
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ジムニーの遠いご先祖様達です
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綺麗な従軍看護婦さんの言う事は素直に聞きましょう。
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全紙製の隼

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「はやぶさー2」 が宇宙に飛んでから・・
私も80年前の・「隼」を~、と思い付いて、何か変わった材料で、と思って
バインダーの分厚い紙を切って貼りあわせて約2週間・・・・手が痛い!
ようやく外観だけできました。
 
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全紙製と言いながら・・この部分は木製です、もう厚紙をカッターで切るパワー無くなって(涙)手抜きです。
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2週間でここまで・・残ったのは右手の関節と筋肉痛です。
 
あとは落下タンク2個でほぼ完成です。
着色は気が向くまで放置です。
 
『猫の手も借りたい』 けど・・貸してくれません。
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対空射撃の駄論

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対空射撃
大東亜戦争の ≪飛行機対艦艇≫ の戦いですが・・
真珠湾攻撃の我が航空機の被害29機は多すぎるのでは?
と思って色々調べました・
(と言っても自分勝手な思い込みの多いアバウトな私見です)
 
停泊中の米艦隊は約20隻前後、それを二波・約350機で奇襲して、29機の損害は多いのでは・・・と思いました。
マレー沖海戦では双発で鈍足の陸攻(96が59機、1式が26機)で被害は4機、内1機は不時着大破(3機と言う記録もあります)、未帰還機は3機と言う事です。
 
真珠湾・マレー沖と、比率でみると真珠湾は約4~5分の1として6~7機の損害では?
などと馬鹿仲間の友人達と話していたが・・・
 
結論として・・
・・無論何の科学的な検証や実質的戦史とは懸け離れた愚論です・・・
『海上を動き回る甲板から撃つ、静かに止まっている甲板から撃つ、の違い』
となりました。
真珠湾は停泊繋留中の艦上からの精度の良い対空射撃と地上基地から射撃、の結果29機もの撃墜・・
重ねて言いますが全く根拠はありません。
 
その時の馬鹿友の話です。
水上特攻時の大和など8隻は当時としては日本の最高水準の精度と砲数ですが、
高速で左右に旋回を繰り返しながらの対空射撃です。
撃墜はたったの3機、損害は14機のみです。
 
しかし何とか戻った駆逐艦「涼月」は前部2基の砲塔は無く後部の2基4門のみです、
機銃は全て降ろして0、
岸壁に繋留中で動けません、その状態で8月の始めの空襲で小型で高速のP51ムスタングを一撃目で撃墜しています。
 
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大和護衛中に被弾炎上中の「涼月」
 
前部構造物が吹き飛ばされて舷側も穴があいてます
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又、「涼月」のような優れた対空砲塔を持たない戦時量産型の小型駆逐艦「柳」も致命的損害を受けて繋留されていたが5機編隊のシコルスキー一番機を対空機銃で撃墜している。
 
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いずれも航行不能で繋留されて居て≪揺れ動かない艦上からの射撃≫です。
『だから、当時の対空兵器の精度以上に高速で揺れる船から撃ってもアカンのや!』
だそうです。
嘘か本当か分かりませんが説得力のある馬鹿友の酔った席のはなしでした。
 
この馬鹿友の説をどう思われますか、実際のところを知っている方いませんか。
 
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紙の一式戦・完成

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バインダーで作った一式戦がようやく完成!
 
感想は 『 カッターで切りだす右手が筋肉痛 』 二度とバインダーで作る気はありません。 イメージ 1
約50センチ弱の機体ですが・・
分厚いバインダーは『紙』としては相当重い密度のある紙です、
軽戦闘機で軽量なはずの一式戦が重い! これでは重戦闘機(苦笑)
 
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見た目は軽戦闘機『隼』らしい・・軽そうな姿です。
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中島飛行機製作所の≪本物≫の一式戦の雄姿と工場の勇士・職員さんの雄姿です。
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オートバイ・今年の乗り納め。

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寒い・・・唯・唯・・・寒い風がオッサン年齢( 爺年齢 ) には きつ過ぎます。
カメラ撮る余裕なし、手足が痺れて・・・脳味噌も震えて作動しません。
 
        以前に撮った愛車です。
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今日は林道の写真ないので…大昔の兵隊さんと自動二輪車(側車)の写真を見て下さい。
・・
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酷寒零下の『服部挺身隊』です
 
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そして・・頑張ってくれた兵隊さんの必需品の広告
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 ≪この中島薬房は戦後すぐに大幸薬品になりました≫
 
今日は新しい写真無くてスンマセン。
 
このような綺麗な雪女に逢いたいけれど・・その前に凍死しそうな爺ライダーです。
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東海には旭日旗

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いよいよ・・・年末が近い・・
つたないブログを書いていて色々な方達のご意見、と言うより
教えて頂くことが沢山ありました、
雪深い米所や剣豪の生まれた山奥や古都鎌倉の方達を始め沢山の方に・・
田舎者の知らなかった多くを知りました感謝いたします。
 
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所で最近、近隣の某半島の南の国・・・なんでも「ウリウリ・我々の・・」という国民。
剣道はウリ達の国が発祥だ! そのうちに発明王エジソンはウリの出身!とまで言い出してくるようです。
国民ほぼ全員が心の病気のようですが・・・・
 
  笑える! と言うか本心は??と思うことがあります。
 
世界中に『日本海』を「東海」に変えろうっ~~と言っていますが?
「東海」と言えば・・そうです「旭日」です。
 
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~もしかしてウリ達は~~本当は『日本』に憧れているのではないのかな~
 
「東海」にしたい本当の気持ちは多分→こうでしょう。
 
半島から「東海」を見て居ると空が明るくなって来て、旭日が高く輝きだす!!
そして空も地上も 元気にスッキリと気分が満ち充ちてくる、 
明るい希望が膨らんで来る、その向こうには希望を与えてくれる日本がある。
 
そうです!!
『 愛国行進曲なのです。半島のウリウリ達は日本に憧れて・・
それでも・・歪んだ心があって素直に
≪今の繁栄は日本のおかげです・教育制度も鉄道も100年前に作って
  頂いて、
 今も最新技術を教えてもらい、その上国家予算以上のお金までくれる
  大八洲様 ≫
と言えないので・・・せめて
『日本海』を愛国行進曲の『東海』にしたかったのでは・・?
 
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作詞:森川幸雄
 作曲:瀬戸口藤吉 
一、
 見よ東海の空あけて
旭日(きょくじつ)高く輝けば
天地の正気(せいき)溌剌(はつらつ)と
希望は躍る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌(きんおう)無欠揺るぎなき
 わが日本の誇りなれ
二、
 起(た)て一系の大君(おおきみ)を
光と永久(とわ)に戴(いただき)きて
臣民われら皆共に
御稜威(みいつ)に副(そ)わん大使命
 往(ゆ)け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和うち建てん
理想は花と咲き薫る
 
三、
いま幾度かわが上に
試練の嵐哮(たけ)るとも
断固と守れその正義
 進まん道は一つのみ
 ああ悠遠の神代(かみよ)より
轟(とどろく)く歩調うけつぎて
大行進の行く彼方
 皇国つねに栄えあれ
 
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それともう一つ
ウリ達は潜水艦に「安重根」と付けて居ますが・・・
優秀で常識に満ちた我が国は 対潜攻撃機には「伊藤博文」などとは付けて居ません!
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日本は文化以前の奥ゆかしい常識国家だからです。
 
年末近く・・で記事がなくてアホちゃん国のアホ話でした。
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今年もよろしくお願します

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年末から娘や孫に空襲されていました。
昼間は付き合いで翻弄されて・・・・ストレス発散をいつもの山へも抜け出れずに・・・・
仕方なく深夜に離れで (と言っても小屋ですが) 大量にもらったバインダーを切って・・・
貼りあわせて・・・・0,5ミリのバインダーの表紙も5センチの厚さにすると・・・
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38式歩兵銃の銃床です。
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発見しました!
バインダーの表紙は相当圧縮された紙のようで相当重い!
銃床の重さは1,4キロ、樫や栗と同じ重さになりました。
 
年末年始の深夜の仕事です・・やはり私 はアホ以上で馬鹿以下のようです。
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昨日孫達が帰って自由の身になったのですが・・・睡眠不足でオートバイで林道は2~3日後
ニシテ・・・寝ます。
夢の中で綺麗なお姉さん達に逢えるかなぁ~。
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