ボロボロの蒔絵は我が家にあったものです、なぜ有ったのか不明。
(ヤフオクに出しましたが入札0 で知人に無理やり進呈しました、多分知人も処分に困ってるでしょう)
忠臣蔵の大嘘―1
毎年年末になるとテレビに登場する江戸時代の四十七人のテロ物語、
それは忠臣蔵と称して『あだ討ち』といっている真っ赤なウソの不思議な物語・・・
そもそも『あだ討ち』とは昔から『理不尽に殺害された遺族が加害者に仕返しする』ことである、
誰も殺害されていない赤穂藩の四十七人が『あだ討ち』をすること自体ありえない、
元より、吉良の老人が赤穂の浅野の殿様を殺害した訳ではない無いから、
逆に浅野に怪我を負わされた吉良の老人は被害者である、
加害者の家来が被害者の老人を再度襲撃して殺害したのを『あだ討ち』とは言えない。
冷静にみるとその異常さに気づくと思う、
その前に浅野の若い主君について時代の背景をみてみる、
類似した事件が以前にもあった、
それは三重県の鳥羽藩、九鬼水軍の流れを引く九鬼氏が鳥羽城主であった、
その九鬼が内紛で国替えにされた後に常陸真壁から内藤氏が来た、
その内藤家城主の三代目、内藤忠勝が幕府の菩提寺、芝増上寺で行われた法会のさい永井尚長に斬り付けて切腹となった、当然内藤家は断絶となった事件があった、延宝八年(1680)
この忠勝の姉の息子、すなわち甥にあたる若者の浅野某が元禄十四年(1701)に松の廊下で老人に刃傷事件を起こした、
驚いたことに僅か十一年の間に起こった二度の刃傷事件は血縁者が起こしたのだ、
浅野が切り付けた理由は後世の作文で事実ではない、
1)『賄賂説』・・当時も今も高級官僚には悪いことではなく普通に行われていたので理由には当てはまらない、
なお悪質な賄賂が盛んになるのはもっと後の田沼意次(1719~1788)の頃からである、元禄の頃では賄賂というより挨拶代わりの『御歳暮』『お中元』程度の微細なもので理由にすること自体無茶な話しだ。
2)『赤穂の製塩技術』・・この説も当時の製塩は製法ではなく海水濃度や日照などの地理的条件に左右されていたのでこの説も全く概等しない、
1)2)のように、理由とされている二つの話は後世の作り話に過ぎない。
ではなぜ浅野の若い男が吉良の老人に刀を抜いて襲いかかったのか、
理由は無い!!法律用語で言う『因果関係』はないのだ、
大した理由なく突然老人に切りつけただけである、ただその蛮行原因は十数年まえの叔父と同じものである、内藤の叔父も浅野の甥も同じ精神的な持病である、
当時は「痞え(つかえ)」といった病(やまい)、
今で言うと「理由もなく自制心が切れる、切れると凶暴な行動をとる」
当時は乱心した・・といわれた、
この時乱心した若者に切りつけられた老人は刀を抜かず全く抵抗しなかった、
狂った若者にただただ堪えたのである、よく言う『喧嘩両成敗』も成立しない、
吉良の老人は自分の命の危険に対しても場所をわきまえた沈着な対応に終始した!!
後の芝居と全く逆の立派な態度をとっていた不幸な被害者老人である、
ここで美女を見て少し目を休めてください![イメージ 3]()
続き
そして浅野は切腹を命じられた、それは当然です。
もう一つ不幸なのはこのような精神的に病んだ男を城主として仕えていた四百数十人の家来達である、家族を加えれば二千人近い人達が路頭に迷うことになった、この若者の凶行で一瞬にして失業したのだ。
世の中は不可思議である・この病気の男が何時の間にか『名君』となってしまった、
( 浅野の若者は此処で事件を起こさなくても、いつか自分の家来を襲ったと思う、
自分の家来なら何人殺しても藩内でうやむやになってもっと不幸な結果だったかも知れない )
幕府の処置は迅速であった、結果論で拙速という馬鹿がいるが・・・
ここで個人的に思い出したのは社民の弁護士出の福○瑞▽と言うアホの顔でした。
幕府は十数年前にプッツンして刀を振り回して切腹させられた叔父と血筋のつながる若者を同じく切腹の処分をした、
それは封建秩序を守るためには当然であろう、『保護入院』などない時代では生かしておくのは無理である、
後に弟の再興を許さなかったのも同じ異常な血が流れているという理由があった、(7年後綱吉の死による大赦で安房平郡で五百石で旗本寄合いに復帰)
これも討ち入りとは関係ない8年後である、
反対に若者に切られた被害者の吉良の殿様は善政を敷いた『名君』であった、
国元に帰ったときこの老人は駄馬にまたがって領内を巡視したり・・有名な『黄金堤』という洪水から守る堤の建設をした事も有名である、新田開発も行った、領民が『富好新田』と妻富子の名を付けて尊んだほどである、
このような事実の一例から善政を敷いた領民思いの名君である、
反面、加害者浅野家のもう一つの背景も吉良の老人には不幸なことであった、
それは浅野の家老・大石の存在である、
吉良の老人には重なる不幸となるのは赤穂の家老の大石という男が仕組んだ策略があった、この善人の老人を何時の間にか世間では広く深く『悪人』にしていた。
これが年末恒例の集団ヒステリー物語の概要である。
現代でも日本では『被害者には冷断で加害者の心身喪失や心身恒弱者には異常に過保護』であるがこのアンバランスさは江戸時代から引き継いだ国家の欠陥です。
( 一例 名張葡萄酒事件・たくさんの殺された被害者と家族の憤怒、三重県警のお粗末処理で犯人と判っていても・・証拠云々と騒ぐ馬鹿弁護士と赤集団!地元の人達は「なぜ処刑して償いをさせるのを妨害するんやっ・・」と怒っています )
文書では残っていないが家老の大石は主君の心身喪失を理由に幕府に不満をぶっつけたのだ、
いわく『心の病の若者を切腹させるとは許せない、心か頭の病の者を罪に問うのは許せない・・・せめて弟に御家再興をしてくれ』
お家再興というのは自分たちが失業しなくていい為の方便に過ぎない、
この大石の理論は無いものねだりをする子供以下、反日日本人と同じ言い様である、
現代の羞恥心のない弁護士の口にする言葉そのものであるが・・・
しかし、それ以上に大石には次の幕府の処置が自分に向かうことを知っていた、その後の自己保身と家族を守るために離婚までして妻子を里に帰している、旧藩士には妻や娘を身売りさせて討ち入りの費用を捻出している悲惨さと比べるとまさに『人非人』としか言いようがない、自分は京都郊外に妾を作り日々耽美に暮らしていた、またそれは家老時代のままの大石自信の日頃の遊蕩に耽る生活態度の続きである。
浅野家留守家老、大石という男については浅野切腹事件の以前から当時の幕府情報網の中に・・
(いわゆる隠密による日本全国の藩内人事の情報は驚愕するほど精緻に諸国調査の記
録されていた、今の社会主義国家以上の情報収集である)
内容は大石の遊郭での豪遊、遊蕩が記録されている、その上講評まである、
『遊郭では池田某と異名を名乗っているが天性の女色狂いと酒宴狂いは常軌をいっしている、遊郭では・浮様・などとあだ名されるほど遊興にふけっている、このような人物に藩主の代理で藩政を執らせている赤穂は長くは安泰で続くことは難しい・・』などと淡々と報告されている、松の廊下での事件より数年前である。
幕府の儒学者・荻生徂徠は唾棄するように大石への評価を『赤穂は必ず不祥事を起こすだろう』と酷評を下していた、
驚いたことに浅野切腹後も大石の遊興三昧は続いた、京都山科で妾と住みだしたのも主君の切腹後である、それは吉良家を欺く為と言えない天性の女色狂い、妻を離縁して里に帰したあと女性と夜の営みが無いと過ごせない男!これも一種の病である。
ただ当時どこの藩でも家老などの重役には何人もの妻妾がいたのはよく知られている、が、藩がとり潰され旧藩士は浪人となって生活苦の辛酸を味わっていた、その上討ち入りの準備に苦しんでいた四十数人の苦労を知りながら子供のような若い妾に子供まで作っている大石という男の人間性は真面目な人物とはとても思えない。
このように隠密の報告は精細に大石の人間性の弱点に驚く程の詳細な記録を書いていた。
この報告書も現在残っているが・・・・忠臣蔵の大嘘・2 に続きます