前回は『醜い日本人』の顔を出して申し訳ありません、反省。
その醜悪な男の後味悪さを消すために・・・
素晴らしい方の話です、一部過去に載せましたが、お許し下さい。
≪2013年12月10日 ・marugaripepuブログ・ヤフーブログ≫
義人・村上粂太郎
ハルピン民生部事務官・村上粂太郎の遭難から救出までの自己犠牲の行動が日本のみか世界中を感動させた、 その犠牲的な行動により捜索中の海軍陸戦隊のボートに発見されて奇跡的な救出がはじまった、その瞬間の絵です。
≪この日本画は我が家の家宝です≫
昭和9年8月30日の事である、状況は以下の歌に拠ると簡潔に解ります、
義人 村上粂太郎の元歌
1 暁寒き北満の 鉄路も暗き急行車
銃火を浴びせ襲い来る さてもこしゃくな匪賊共
応戦するに武器は無く 女子供に怪我さすな
覚悟を決めた人質に ままよ何処でも引いてゆけ
2 荒れ野の沼地踏み分けて 土に伏すとも同胞の
命の為だ必ずや 救援隊はきっと来る
柳を分けて覗えば 陸戦隊の漕ぐボート
すわこそ監視の匪賊共 銃をそろえるその刹那
3 躍り出でたる生け贄の 男児 村上粂太郎
歓呼のごとく大声に 日本人はここに居る
叫ぶや否や匪賊共 慌てふためき撃ち出だす
弾にひるまず堂々と 日本人は此処にあり
ハルピン発新京行き国際夜行列車を襲撃した支那人匪賊により日本人と米国人が人質となる事件が起きた、人質は匪賊のジャンクに乗せられて松花江中洲を移動していた、その匪賊のジャンクに縛られていた村上粂太郎は捜索中の海軍のボートを見つけた、口中に銃口を突きつけられていたがそれを払いのけて『日本人ハ此処ニ在リ』と叫んで知らせた、
ボートの日本海軍陸戦隊が発見し陸戦隊のボートは全部隊に知らせつつ人質の救出に向かった
、これを見て水に飛び込んで逃げる匪賊を次々に射殺、逮捕56名、人質の9名(一説では10名)全員を無事に救出したが、村上粂太郎は上顎貫通銃創と左腕被弾の重傷であった、
この奇跡的な救出は当時の海軍陸戦隊の精鋭な練度と共に単なる事務官である村上粂太郎の犠牲的な武勇であった。
もう一つの 『 義人村上 』
-日本人は此処に在り- (昭和9年)流行歌
1.
何処へ曳かるる人質ぞ
首や双手は縄からげ
二日二夕夜も休みなく
明けりゃジャンクの船の底
2.
救援隊の呼ぶ声に
慌てふためく匪賊共
口に銃口つきつけて
撃つぞ叫ぶな声立つな
3.
それ 皇軍の短艇が行く
呼べば撃たれん叫ばずは
天に口無し すはや今
歯を噛みならす一刹那
4.
丈夫 村上久米太郎
匪賊蹴破り躍りいで
満腔義烈の声こめて
「日本人はここにゐる!」
5.
叫ぶやいなや弾丸は
顎を貫き犠牲に
君を倒せどその声に
内外人は救はれぬ
6.
君傷つきぬされど今
義烈輝く日本の
精神ならで誰が呼ぶ
この一ト声を誰が呼ぶ
これが昭和9年に『義人村上粂太郎』と歌われ、この『絵』になった事件の概要である。
海外の反響の一例・・
大阪毎日新聞 1934.11.6-1934.11.8(昭和9) 戦後の一部の醜悪な集団に属する新聞社と社員には無い自己犠牲の 崇高な事件でした。
米国記者の見た日本と満洲国
クリスチャン・サイエンス・モニター紙編輯長
忘れ得ぬ義人村上氏の印象
満洲で私が最も感動をうけた経験はその勇敢な犠牲的行動によって匪賊の手から七名の日本人と二名の米国人を救ったかの村上粂太郎氏に面会することができたことであった、二、三の同行者と共に私は村上氏がいよいよ退院して新京の家族の元へ帰った日、氏に面会することができた、氏の謙譲な口からあの残虐な事件の説明を聞いたのだが、控え目な言葉にも拘らず話は極めて壮烈なもので、われわれはこの一人の英雄の前に座していることを意識していながら何だかそういう英雄的行為とは別な日本人の偉大さを物語られているような気がしてならなかった、氏は満洲国皇帝から名誉ある勲章を授けられた、身体の不自由なのにも拘らず迎えてくれた氏をわれわれは永久に忘れることはないであろう。
あの記者も同じ日本人! でもこれだけ違います。
尚・この村上粂太郎と言う方は 愛媛県今治市吉海町津島出身 の方です、
愛媛県の教員組合員(淫?)の人々は分からないでしょうね!