福島安正 中佐・出発時は少佐
以前にも一度『福島少佐の単騎シベリア横断』をアップしましたが、
今度は福島少佐の『脚』として欧州から亜細亜まで行を共にした10頭の馬の話です。
明治24年11月にベルリンで『凱旋号♀』英国産の半血種・9歳牝を購入、
翌、25年2月11日の紀元節にベルリンを出発した…
非常に良馬であるが体高が1,62メートルもあり元々騎兵でもなく小柄な福島少佐には乗馬の時には台が必要になった、単独での荒野の踏破に苦労した様子が手記に度々書かれている。
それでもこの馬を乗馬に選んだのは、
少佐の体重にプラス重い防寒外套や冬軍服は80㎏
鞍・毛布・その他携行品は40キログラム
(鞍の下に毛布・後部に普通外套・4個の革袋に襦袢・袴下・靴下・各1着・手袋2・手ぬぐい2・洗面具・医薬品・地図・製図用具・日時計・晴雨計・軍刀・拳銃。
なお水筒は携帯せず・・)
合計120㎏・・(輺重駄馬でも100㎏が限界である)
この重量に耐える大型の乗馬の名前を『凱旋号』と名付けた。
約3か月を過ぎた頃から跛行(ひこう・ビッコ)を引くようになり蹄鉄からも血が滲んでいた、
5月11日、バクレフ市に着いた時、とうとう立ちすくんで歩けなくなった。
「急性腱炎」と診断された、
凱旋号は厳寒の荒野の歩行では雪と凍った泥濘と瓦礫道でとうとう足を痛めてしまったのだ、
蹄の裏・蹄叉が凍った水で爛れて裂けて出血した、蹄葉炎になっていた。
少佐の悲痛な日誌
『愛馬一朝ニシテ病ミテ起タズ 断腸、涙ヲ揮フ別離ノ辰(明日)』
現地の村長宅に預けて寝ていた『凱旋号』の鼻を撫でたり首を摩って別れを惜しんだ少佐ははた目もはばからず、ポロポロと涙を流して一日中青草を食べさせたり背中に群集する蚊を払って一日中看病した、いよいよ出発の日にタテガミを少し切って紙に包んで・・戦場の愛馬の別れのように・・
今後の治療費を多額に託して、馬丁にも金銭を渡して・・・
この愛馬との別れには日記の数ページに渡って
『 憐レム可シ今ヤ凱旋号ハ病ミ疲レテ不幸ヲ慰ムルモノナキ時、
長ク仕ヘ親シミ睦ミシ余ノ慰ムルヲ見テ嬉シサニ耐エズ,
首垂レテ余ノ動ク毎ニ耳ノミヲ動カシ、
哀シゲニ嘶キ唇ヲ震ハシ何事カヲ訴ヘントスルモノノ如シ、
之ヲ見テ余益々胸セマリテ涙自ト双眼ニ溢ル。
思ヘバ・・・中略・・・
又逢フノ期ナキ愛馬ノ行末ヲ想ウテハ万感胸ニ溢レテ離別ノ悲、
愈々切ナリ 』
勇壮な単騎横断物語の中にあった人馬の別れる バクレフ市 の数日は悲しい記徐で福島少佐のもう一つの人間性に深く感動しました。
少佐はこの後25年5月11日に乗馬『ウラル号♂』を購入したが鞍傷と凶暴の為、廃馬にした。
(多分≪金抜き≫をして無かったと想像します)
25年8月19日、臨時代用馬に『スタリック号♂』、9月20日以降は駄馬として使用、
外蒙古で腹痛で死亡。
25年8月19日に駄馬も購入して乗馬への加重な負担を考慮している。
25年9月8日に駄馬を購入、(8月購入の駄馬と交換)この駄馬は外蒙古で死亡。
25年9月20日『アルタイ号♂』5歳駒月毛、『興安号♂』6歳駒栗毛の2頭を購入。
この『興安』は最後まで266日同行して健在・・・ただ『アルタイ』は26年1月17日跛行の為乗馬できずに放して自由にすると付き歩いて来る。
25年10月15日駄馬を購入。同行馬が多すぎたので12月19日にコザック中隊長に前の駄馬を贈った。
25年10月19日駄馬を『スタリック』の代わりに購入。
26年1月17日『ウスリー号♂』10歳駒蘆毛を『アルタイ』の代用としてチタの騎兵隊より購入、以後147日完走して健在。
3騎が最後まで歩き内地に連れ帰る。
こうして少佐の脚となって呉れた馬は10頭、
途中で力尽きて死んだ馬が3頭、途中で廃馬(現地の人に譲った)が4頭、3頭が日本まで同行した。
行程3500里(13,745k)488日の単騎遠征は終わった。
正確に言えば 単身で10頭の騎馬を乗り継いでの遠征であった。
3頭は天皇陛下の主馬寮で飼育されていたが乞われて上の動物園で記念馬として最後まで幸福な老後を全うした。
前後しますが、25年7月9日 ウラル山頂の『欧亜境界碑』に到着。
ヨーロッパとアジアの境界線に着いて居ます。
この石碑が今もあるのかどうか分かりませんせが・・・多分支那人(中国共産党)が居ない地域なので残って居るとおもいますが・・・
福島少佐は26年3月1日付けで中佐に進級していたが本人は後で知った。
この後の福島中佐は支那の義和団と称するテロ集団の事件,いわゆる『北清事変』で北京城に籠城していた欧米諸国の外交官や武官の救出作戦の指揮官として世界中に名声を博した。
義和団鎮圧の為、明治33年(1900年)年6月、臨時派遣隊司令官として同年9月から翌年6月まで、
同時に北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、英、独、仏、露、北京官語を駆使して調停役として活躍。
明治37年2月、『日露戦』では大本営参謀に就任し、同年6月から日露戦争では満州軍総司令部参謀、この時も同時進行で・・
満州馬賊を率いて戦った「遼西特別任務班」、「満州義軍」の総指揮を行ったことは、一般にあまり知られていない。
明治40年9月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。