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池野兵曹建立の慰霊碑

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    ≪ 日露戦争・軍艦と駆逐艦の戦死者慰霊碑 ≫


(戦争に敗れると偉大な個人の業績と貴重な史跡まで損壊される・
             と言う歴史破壊の話です)
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帝国海軍の 池野兵曹 自費建立の、日露戦争従軍中の海戦で軍艦乗組中の戦没戦友の慰霊碑の由来について。
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巨大な石碑です
 
池野兵曹の孫にあたる方、


現在斎宮に在住の 元海上自衛隊幹部の方にお目に掛かり一部、概要を、お教え頂いた。


此の方は池野兵曹の薫陶を受けて代々海軍軍人の家庭ですが、


池野兵曹の孫が同じ海軍で海軍中佐(二等海佐)になって居られる事でも池野兵曹の精神は脈々と今も尚生き続いて居るようです。


 


概要は日露戦争終結後、池野兵曹が除隊したときの叙勲恩給とその
10倍以上の自己資産で建立。


除隊後に購入した山に梅・栗・らっきょ・芋を植えた広大な山は
『池野梅林』として近郊に知られる名勝の地になった。


その頂上に慰霊碑と原籍碑の二つが建てられていた。


石碑の周りに海軍より寄贈の砲弾で囲まれて太い鎖で守られていた。


当時は小学校(国民学校)の子供は遠足で行く景勝の地だったようです。


私の亡母もこの近辺の出身で子供のころは学校の遠足だけでなく、友達と遊びに行って居たと思うと感慨が湧いてきます。


それにしてもこのような史跡遺稿を抹消する戦後教育には憤りを覚える。
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 在郷軍人会による式典の絵葉書


鉄鎖に飾られた砲弾には海軍大臣・加藤友三郎の≪顕忠≫と≪遂良≫の字が刻まれて銀色に象嵌がされていた。


慰霊碑を囲む鉄鎖も海軍省から贈与するために必要寸法などを調べるようにとの文書が残って居る。


 絵葉書には海軍から寄贈された12吋(30センチ)砲弾が4個と鉄鎖で囲まれている。


池野實蔵兵曹と尊父興三兵衛の除幕式までの費用は当時で1千円以上と言われています。


 ( 単純に現在価格に時代換算では20、000倍ですが大正と平成の価値換算指標では消費指標+作業日数時代差人件費数値の倍率は単純換算の1対12となります。


算式・1、000×20、000×12=240、00万円の莫大な費       用が掛かっています )


池野兵曹の捻出した巨費と亡き戦友への深い思いで建立された慰霊碑には
日露戦で駆逐艦「速鳥」軍艦「音羽」で戦死した戦友上官の名前が刻まれた石碑も横に建てられている。
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 横の原籍碑文は「早鳥」と「音羽」の順で戦死された方の出身地・階級・氏名が刻まれている、


その住所も池野兵曹が全遺族へ問い合わせてしらべたもので、慰霊碑式典には招待状も送られていた。


戦死者名の碑文は日露戦争時代の古い階級で・・中主計(主計中尉→二等海尉)とか中軍医(軍医中尉→二等海尉)の刻みが貴重な時代推移を知ることのできる近代歴史の資料です。


 大東亜戦争終戦後にGHQの命令か、または殺伐とした世情でやむなく砲弾は撤去、売却したそうです。


『戦争に負ける』と言う事は貴重な業績や歴史遺産まで消滅されること、の無念な一例です。


 近郊の小学生の遠足で親しまれた慰霊碑は終戦後、殆どの松阪市民から忘れられて行った。  当時の松阪名所交通絵図です。
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その後松阪商業高校が池野梅林の山に移転してきた、この時山頂にあった慰霊碑は松阪市内寄りの山裾(今は小さな丘に見えます)に移築されている。
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池野兵曹が日露戦争時に乗り組んでいた艦船写真


駆逐艦 速鳥 はやとり・・・春雨型3番艦
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  写真は2番艦・村雨  (他に同型艦は7隻)

軍艦・音羽
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  • 上記2艦の日露戦争中の戦死者の名前が池野兵曹建立の石碑に刻まれている。


  慰霊碑の左後ろの小さな石碑がこの『原籍碑』
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 『速鳥』と『音羽』の戦死者の出身地・階級氏名が全て刻まれています。


           ・・・池野實蔵と言う人物・・・・・・

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建立された池野兵曹の業績を孫にあたる元海上自衛隊二等海佐さんに教えて頂いた、その池野實蔵三等兵曹の逸話など。


 今の松阪市上川・・・明治・大正時代は三重県飯南郡神戸村、その当時の文書です。


海軍大佐北村又吉の文面から


『村内一流ノ資産家ニシテ田畑二十町歩ヲ有セリ、三男ニシテ父兄ヨリ一町幾反余ヲ分与


セラレントセシモ断然之ヲ辞シ何編迄モ独力ニテ立派ナ者ニナラント志シ最初ハ屯田兵ヲ


志願セントシテ出来ス海軍ニ志願セリ』


と19歳の少年ながら意志強固な人だったようです。


海軍は三重で116人の志願者中僅か16名の合格という超難関だったのですが・・


晴れて明治29年8月1日に帝国海軍の五等水兵となりました。(当時は二等兵では無かった!!)


その後ハワイ・マレー・香港 等何度も遠洋航海で廻ってたようで順次進級を重ねて行きます。


明治三三年の北清事変(義和団の乱)にも参加して戦功による一時金を下賜されたり従軍記章も下賜されています。


そして日露戦争が始まり現役の満期除隊が延期されて、明治38年10月、日露戦が終わって現役解除


予備役海軍軍人として故郷に凱旋した。


この間11年、19歳から30歳まで海軍軍人として戦火をくぐって働いていたのです。


その間に乗り組んでいた艦の戦友が戦死して逝く姿と故郷に生きて帰った自分の事を忘れられなかったようです。


意志の強さを示す逸話として


海軍に入ってから支給される給金の殆どを故郷に送金していた。


気の合う戦友の誘う酒席をいつも辞す池野兵曹を戦友達は


『おそらく家庭の生活が困窮しているからだろう』と想像していたのです。


ある年、休暇を得て戦友と伊勢神宮に参拝する途中に池野兵曹宅に寄ることになったのですが


戦友は池野兵曹の家は当時ごく普通にあった水呑み百姓の家だと想像していた・・


ところが、母親の出迎えた家屋敷が余りにも立派な屋敷なので大変驚いたという逸話が残って居る。


同時に池野兵曹の給金を酒色に浪費せずに家に送金し続ける意志の強さに改めて驚いた云う。


 


また19歳の少年 (但し、当時は15歳を過ぎると一人前の大人として遇されていた。当然酒もタバコも15歳から受け入れられる時代です) で屯田兵を目指す独立独歩の開拓精神は偉才の面影があります。


 


海軍に合格して横須賀に向かう途中で父兄の餞別を豪快に遣い切って入隊した逸話も凄いものがあります。


ある観方をすれば経済的に憂いのない資産家の3男らしいと思います。


貧乏人ならおそらく大事に遣わずに海軍に入隊したのではと思います。


入隊してから池野兵曹は、海軍では僅かと思いますが諸経費は自己負担と聞いて、


自分はスッカラカンに餞別を使い果たしていて大いに恥をかいた、


自分への恥より此のことを思って餞別をくれた父兄に恥辱を与えたと大いに反省して・・・


以後給金は全く浪費しなかったのです。


浪費しなかった逸話の中に


『艦隊勤務を重ね、相当年を経てから初めてパンを買い食べた、そのあまりの旨さに驚いた』


多分アンパンだと思いますが二十数歳になって初めて浪費したのがアンパンだと思うと資産家の三男がそこまで意志強く無駄遣いを自戒するという強靭な精神力に驚きます。


 


除隊して故郷に帰ってからも人の1,5倍働き、後に池野梅林と呼ばれるまでの開墾と植樹で成功したのも≪財を成す≫目的ではなく、只々莫大な費用を捻出して慰霊碑を作り上げる信念の凄さは今の社会では想像も出来ない人物像でしょう。


 


帝国軍隊に入る時に餞別を遣い切って豪遊する逸話は他にも沢山あると思います。


しかしそれを父兄・一族に恥辱を与えたと反省して生涯浪費することなく。


亡き戦友の慰霊に気を配り、とうとう慰霊碑まで建立する人は皆無です。
この池野兵曹の業績も慰霊碑も殆ど忘れているのが今の松阪市民です。
私も反省しています。
何とか多くの人に知って貰いたいと思います。

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池野兵曹の建立した慰霊碑は個人が独自に創り上げたものですが・・・前出の絵図では大きく描かれて居ました。
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